昭和37年ブログ

昭和37年生の、昭和37年生による、昭和37年生のためのブログ

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太陽学園はどこにあった

♪空に燃えてる でっかい太陽 
 腕にかかえた 貴様と俺だ 
 バネもきいてら 血もわくさ 
 エイコラ ゴーゴー やっつけろ 年がら年中 傷だらけ 
 泥んこ苦行はなんのため 勝って帰らにゃ男じゃない

この歌ご存知ですよね?
夏木陽介主演「青春とはなんだ」に始まる「日テレの青春シリーズ」で、ずっと流れていた曲ですね。

このシリーズ、開始は40/'65年、37生が3才の時です。(モノクロでした)
その後、竜雷太の「これが青春だ」「でっかい青春」、さらに浜畑賢吉の「進め!青春」と、
43/68'年まで続いて、いったん終わります。

37生的には再放送で見たものも多いのですが、シリーズ中のいろいろな作品が、記憶の中でごっちゃになってる感じでしょうか。
年齢的に幼かったことと、内容が似たり寄ったりだったこともあって、まぁしかたないかもしれません。

で、その後4年ほどインターバルを置いて再開されたのが(47/'72年)
「飛び出せ!青春」そして「われら青春!」の太陽学園2部作であります。
こちらは37生の10才~12才の時の放送開始ですから、皆さんよーく覚えてますね。

さて、この2作品が他と一線を画するのは、共通した世界観があるということです。
つまり設定が一緒なんですよ。
舞台を某地方都市の、「太陽学園」という高校に定め、登場人物も重複します。

じつは冒頭の歌(「貴様と俺」といいます。同期の桜みたいだな)なんですが、
この2作では太陽学園の応援歌として繰り返し歌われています。
シリーズ8年間を通して使われてきたんですから、究極の使い回しですね。


まず「飛び出せ!青春」
先生役はいわずと知れた、ビギンこと村野武範。マドンナの本倉先生は酒井和歌子です。
それと太陽学園の面々ですが、
杉田校長(有島一郎)、江川教頭(穂積隆信)、塚本先生(柳生博)etcとなっております。
例の穂積隆信の「塚本君、塚本君っ」という台詞、なつかしいですねぇ。

ところでこの学園、校長の「来るものは拒まず」の方針で、全国の落ちこぼれが集まっているのです。
なんか-北星余市高校みたいなところでした。
そこで、ヤンキー先生ならぬ河野先生が、サッカー部の"不良"(最近聞かないなぁ)を相手に奮闘すると、そういう物語です。

ビギンというのはLet's begin.
河野先生のモットーなんですが、
第一回目で、彼はこの言葉を黒板に書いて自己紹介しています。(ただしだまされて、他校の教室でやってるんですが・・)
ちなみに最終回の最後の台詞も、レッツ、ビギンでしたね。


さてさて、その2年後、河野先生の大学の後輩、沖田先生(中村雅俊)が赴任してくるのが、「われら青春!」です。

こちらはラグビー部を作って奮闘します。
マドンナは杉田先生(島田陽子)、河野先生時代から2度留年した高校5年生、山本(穂積ペペ)なんてキャラクターもいました。
他にもラーメン屋の主人(名古屋章)、寮母のおばさん(菅井きん)なんかも、引き続きの出演です。

第14話では「飛び出せ」の生徒同士が結婚するというので(結婚するのは木次くん、森川正太だよ)
河野先生はじめ旧メンバーが勢揃いで出演という、すごい企画も・・・教頭先生が河野先生に「本倉先生元気?」と、冷やかす場面もあったなぁ・・・・確か。

沖田先生のモットーは「涙は心の汗だ」
主題歌「帰らざる日々のために」の一節でもありました。
中村雅俊は、自分でも歌を歌うので、「ふれあい」「青春貴族」なんかもこの番組から出たヒットですね。

ところでなんでもこの番組、最初は沖田先生役に中村雅俊ではなくて、松田優作が考えられていたのだとか。
なんかイメージ違うのですが、松田の沖田先生というのも見てみたかったものです。


さて表題の疑問です。
山あり海ありの「太陽学園」、一体どこにあったのでしょう?

答えは山梨(おい、海ないぞ)
日本大学明誠高校(山梨県上野原市)というところで撮影したそうです。
この事実、だいぶ学校の方でも意識していて、Let's Begin!は今年の生徒募集のキャッチフレーズになってます。

ちなみにライパルの県立東高は、神奈川県立川和高校だそうです。
こちらは県下でもなかなかの進学率を誇る名門みたいですよ。





ではちょっとくたびれた青春貴族たちよ、またお会いしましょう。

・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2007/07/26(木) 09:09:14|
  2. テレビ・ラジオ
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  4. | コメント:15

人生は「人生ゲーム」

突然ですが゜お宅には「人生ゲーム」ありましたか?
うちにはありました。

このブログの冒頭に固定してある記事にも写ってますね。

game5.jpg

これは多分友達のナゴヤ君のうちでとったのではあるまいか、
あのうちはお金持ちだった・・・。



そう、「人生ゲーム」こそ、あの頃、ここの家でもあそこの家でも、わりと節操なく所有していた、言わずと知れたボードゲームの定番ですね。

今でもアレンジを繰り返しながら発売されていて(そういえば、発売中止になった「堀江貴文監修版」なんてのもあったなぁ)、そういう意味では昭和というより、日本の大ベストセラーゲームです。

しかしこれ、もともと日本生まれじゃありませんね。

game6.jpg

なんせ「The game of life」ですからね。
ところで、この小さく写ってるおっさんは誰なんだ?


なんとこのゲーム。原型が出来たのは1860年、18世紀なんですね。
米国マサチューセッツで印刷業を営むミルトン・ブラッドレー氏が、
自ら考案した「THE CHECHERD GAME OF LIFE」を印刷し、発売したのがはじめなのだとか。

で、いきなり歴史をすっ飛ばして、その100年後、
1968年(昭和43)になって、ようやく日本版がタカラから発売になるのです。
これが37生のおなじみの、初代人生ゲームですね。
ちょうど小学校に入る直前くらいのことでありました。

ところで初代の(2代もそうなんだけど)特徴というのは、なんといってもアメリカ版の直訳だったということでしょう。
愚直なまでに、向こうのものを忠実に日本語訳してあるのですよ。

そのため盤面には、当時の日本人の感覚では???というようなマス目もたくさんありました。

   「にげたサーカスの象をみつけ$1,500もらう」
   「ウラニウム鉱山を発見$100,000もらう」
   「石油が出た」

すごいですね。一体なんなんでしょうか?

   「株があがった」
   「叔父がブタ箱に入れられて、保釈金をはらう」

今の時代でこそ一般的かもしれませんが、
これも、当時の日本の一般庶民の感性じゃないですよね。

   「貧しい人に$1,000寄付」
   「ミイラのコレクションを博物館に預けた」

これはアメリカらしいというのかなぁ
ちなみにコレクションを預けると$1,000とられます

極めつけは

   「火星から使者が来た」

うーん
なぜだか知りませんが、この使者にごちそうして$5,00はらうのですね。
わけわかりません。
もしかしたらアメリカンジョークなのかもしれませんが・・・。


まぁ37生はこのゲームで、架空のアメリカ人の人生を追体験したということでしょう。


ゲームでは自動車型のコマを使い、結婚、出産、火事、事故、お祝い、しかえし、などなど、波瀾万丈の出来事が繰り広げられます。
使われる株券とか生命保険、そしてドル紙幣などが、なかなかリアルだったのも、雰囲気を盛り上げてましたね。

そして運命の決算日がやってきます。

人生ゲームのコマーシャル、覚えてますか?
「億万長者になるか?貧乏農場にいくか?」

はい。決算日に借金を返せなかったり、優勝の目がないなと思ったプレーヤーは、起死回生の大勝負に出るのですね。
ルーレットを回して指定した数が出ないと、そのまま破産して貧乏農場送りとなるのです。
でもここで勝つと優勝も夢ではないと・・・。

いやー、いかにもアメリカですね。
今までの努力は何だったんだ的な、見事なラストです。

ちなみに貧乏農場ですが、あまりにインパクトの強いネーミングに、農家の方から苦情が出て、このあと「ゴーストタウン」に変更になります。
さらに極端にアメリカ的だった内容も、58/'83年発売の「3代目人生ゲーム」にいたって、ようやく日本独自の内容に改められたのだそうです。

今日に至るまで1000万セットを売り上げたという、オバケゲーム。
今になって思うと、意外とリアルな側面もあるのかも・・・・。
まだまだ楽しませてくれそうですね。




これは最新版、最近はこんなことになってるらしい


・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2007/07/12(木) 20:27:47|
  2. 流行り・遊び編
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

ボーリングとの遭遇

時は45/'70年
37生は8才、小学校2年生であります。
突然として日本にとあるブームが巻き起こります。
それが・・・・・・・・
ボーリングブーム。

♪律子さん 律子さん 中山律子さん

の、中山律子プロ
覚えていらっしゃいますか?
あれはシャンプーのコマーシャルでしたっけ?
ライバルに須田開代子プロなんてのもおりましたな、あと並木恵美子プロとか。

何でいきなりブームになったのかは謎ですが、彼女たち女子プロボーラーの影響力は大きかったんでしょうね、最初から男子は蚊帳の外みたいでしたから・・・。
(まぁミニスカートで投げる姿に、お父さんたちがドキドキしたという側面もあるのでしょう)

調べてみたら'69年に女子プロが結成されたばかりで、彼女たちは女子プロボーラーの一期生なんですね。(須田さんがライセンスNo1中山さんがNo2)
中山さんは当時27才、須田さんにいたっては30才を超えていたのだそうです。

rituko.jpg

こんな感じですね


さて、ブームが起きて、当時日本中にボーリング場が出来ました。
それも、私の住んでいた関東某県の地方都市ですら、二つも三つもあったのですね。
雨後の筍なんていいますが、本当に筍みたいに、あの屋上の巨大なボーリングピンが、にょきにょき林立したわけなんです。

なんと当時全国のボーリング場は、4000近くもあったといいます。
単純計算で各都道府県に100はあったことになりますから、そりゃぁ嫌でも目につきますね。
なんでも'70年終わりあたりに、スコアを自動計算する機械ができてから、ブームに拍車がかかったんだそうです。

そういえば、我が家がはじめてボーリングというものに出かけた時は、確かにスコアは手計算でしたね。
家族のだれも計算できないんで、ボーリング場の人がやってくれたのを、よーく覚えております。(計算が終わるまで勝敗が謎だったというのも、間抜けな話です)


ブームに乗って「美しきチャレンジャー」なんて番組も開始されました。(46/'71年)




おーこれこれ。モロボシダンがコーチ役なんだ


確か、例の大映ドラマ系のスポコンものだったと思いますが、あの頃同じようなドラマがたくさんあって、どうも内容は定かでありません。
ボーリングってドラマにするにはちと地味だからなぁ・・・でもお約束の魔球とか出てきたような気もします。



もっとも37生は、いくらブームでもレーンに通いつめるには、まだちょっと幼かった。

で、代わりにエポック社のパーフェクトボーリングや、もっと安い、プラスチックのボーリングゲームなんかで遊んでおりました。

pb.jpg

こんなのとか

21JTqc9UNtL._AA160_.jpg

こんなのですね


そうそうパーフェクトボーリングってのは、うちにもありましたねぇ。
ちなみに、貧乏だった我が家にあるってことは、それだけブームだったんだという証拠ですねぇ。どんだけーってやつです。
で、このゲーム。なかなかよく出来ていて、ボールがちゃんと手元に戻ってきたりします。
人形も結構リアルで好きだったなぁ。

それと中山さん、ここにも当然のごとく登場してまして、たしか中山律子のボーリング教室(完全うろ覚え)みたいな冊子がはいってました。



その後ボーリングバブルは、石油ショックとともにはじけ、郊外のボーリング場は、あっという間にショッピングセンターやゲームセンターなんかになってしまうのでありました。
人気の沸騰もすごかったっが、引くのも速かったわけです。

ボーリングが、その後も小ブームと、停滞を繰り返し、今日に至っているのはご存知の通り。
中山プロはまだ現役で、主に後進の指導にあたっておられるとか、須田プロは既に鬼籍に入られております。

ちょっと前までは、あの巨大な屋上のボーリングピンだけが、さびしく残っていたりするのを目撃したものですが、最近それも無くなりましたね。
37生的には、またちょっと昭和が遠のいて、ちょっと寂しい思いなのでした。

・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2007/07/04(水) 09:08:21|
  2. 流行り・遊び編
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:5

石立鉄男はいつアフロになったのか

ちょっと時間が経ちましたが、37生の脳裏に強烈な印象を残した俳優、石立鉄男さんが亡くなりました。
まだまだ若い印象があったのですが、64歳・・・いや、やっぱり若いですよね。
そこで当ブログ流の追悼記事を・・・

石立鉄男といえば「チー坊」
条件反射で出てくるくらい、「パパと呼ばないで」(47/'72年)での演技が有名ですが、
彼は70年代を通して(もちろんそれ以降も)、数々の作品で強烈なインパクトを残した名優でした。

石立が37生の記憶の中に登場するのは、
「パパと呼ばないで」の前、彼の事実上の出世作であった、45/'70年の放送の「おくさまは18歳」ですね。
岡崎友紀が大ブレイクして、国民的アイドルになった作品です。

この作品で石立は、自分の高校の生徒と秘密で結婚している教師という、真面目に考えたらドロドロの役で出てきますが、
ドラマの内容はまさにラブコメ。
彼はハンサムで、女生徒達にモテモテという、あり得ない設定なのですね。(でも演技は思いっきり三枚目ですが)
で、なんと同僚の全然もてない海沼先生の役が、若き日の寺尾聰だったという、驚くべきキャスティングでした。

しかしこれは面白かった。脇にうつみ宮土理や、冨士眞奈美など、なかなかのメンバーを取り揃えて、現在に至るまで、シチュエーションコメディーの傑作として語り継がれています。

しかしこの時の主役はあくまで岡崎友紀であって、石立が主役を張るようになるには、まだ少し間があります。
で、その後「おくさま」のTBSから、日テレに移ってとったのが、「石立ドラマ」といわれる一連の作品ですね。

「おひかえあそばせ」 (46/'71年)
「気になる嫁さん」 (46/'71年)
「パパと呼ばないで」 (47/'72年)
「雑居時代」 (48/'73年)
「水もれ甲介」 (49/'74年)
「おふくろさん」 (50/'75年)
「気まぐれ天使」 (51/'76年)
「気まぐれ本格派」 (52/'77年)


このうち「雑居時代」は、「おひかえあそばせ」のリメークで、ともに女ばかりの姉妹の中に、石立が同居することになる、というコメディ。
なので記憶が混同している37生も多いかと思います。

ドラマとしては「雑居時代」の方がヒットしたんじゃないかな?
ちなみに杉田かおるが前作「パパと呼ばないで」から引き続き出演していて、石立と初対面のシーンでは、
石立が「君、お米屋さんの二階に住んでなかった?」という、楽屋落ちみたいな台詞を発していました。

「気になる嫁さん」では亡くなってしまった弟の婚約者、榊原るみに心を寄せる兄の役。
この手の同居もの、多いんですねぇ。

榊原るみ、かわいかったです。
石立鉄男には、共演者の魅力を引き出す力があったようで、前述の岡崎友紀、杉田かおる。榊原るみ、そして無名ですが、「気まぐれ天使」で共演した坪田直子(樹木希林の孫、渚役)など、魅力的な女優との競演が多いですね。
追悼記事などをみてみると、演技には厳しい方だったようですね。


ところで石立鉄男といえば、アフロヘアです。

しかし、今回いろいろ調べてみましたら、彼は決して最初からアフロだったわけではありません。
「おくさまは18歳」の時は当初ただの長髪でしたし、その後もだんだんカールがかかっていますが、アフロというにはちょっと弱い。

そこで時代をおって彼の髪型を検証してみました。




おくさまは18歳
小さいけどわかりますか?ただの長髪ですね。ちなみにその右が寺尾聰





気になる嫁さん
だいぶカールがかかってきました





パパと呼ばないで
かなりアフロっぽくなります





気まぐれ天使
ここでアフロになる
ちなみにマドンナは酒井和歌子





少女に何が起こったか
おなじみの顔になる・・・


画像が小さいのですが、わかっていただけたでしょうか?
最後のはずいぶん後の作品ですが、この石立ドラマを通して、彼はどんどんむさ苦しい三枚目のキャラクターを確立していったようです。
で。むさ苦しくなるとともにアフロになったと、まぁそういう結論ですね。


あまりにむさ苦しく、濃いキャラクターなので、やがてだんだん時代とのずれを生じ
その後は脇に回ることが多かった石立鉄男。

それでも、「少女に何が起こったのか」「スチュワーデス物語」そして「わかめラーメン」のCMなど、時々出てきては、いい味出してました。
晩年は麻雀三昧の破天荒な人生だったようです。

強烈なキャラクターと存在感。37生はあなたを忘れません。
合掌

・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2007/06/18(月) 09:12:09|
  2. あの日の出来事
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半ズボンの日々

今回のお題は半ズボン。
ハーフパンツじゃないですよ、半ズボン、
昭和の男の子のユニフォームです。

さて先日、ドラえもんのキャラクターがリニューアルしたという(したんですよぉ)情報を聞いたとき、いよいよのび太君も半ズボンを捨てるのかと、大注目したのですよ。
でも・・・・捨てませんねぇ。
ジャイアンが長ズボンから、バミューダパンツになり、しずかちゃんが肩出したりしちゃってますが、ぴちぴちの半ズボンだけは死守している。




こちらは旧バージョン


これはサザエさんも一緒で、カツオや中島君はかたくなに半ズボンをはいているのですね。

やっぱりあれがないと昭和じゃない。そんでもって昭和じゃないとマンガの世界観が変わっちゃいますからね。
(でもスネ夫が携帯使うらしいぞ、最近のドラえもん・・・)

ところが現実に目を向けるならば、
半ズボン、あの股下2~3センチの「昭和の半ズボン」は既に絶滅してしまっています。
絶滅状態ではなく、絶滅なんですね
平成5年を境に店頭からもいっさい消えたといいます。

なんでもブリーフよりもトランクスをはく子供が増えたので、下着、というか下手すると◯◯が見えてしまう、半ズボンが敬遠なされたのだとか・・
やだよぉ、子供のくせにトランクスとかはくなよぉ

そもそも半ズボンが子供のファッションとして一般化したのは、1950年代、そんなに古いことではないのです(半世紀以上前だけど)
しかし普及は急激かつ、徹底的で、
特に70年前後から一世を風靡したデニム地の半ズボンは、小学生なら必ず持っていた必須アイテムでした。
当時ジーンズブームがあり、また丈夫で長持ちってところが、子供服の素材として最適だったのでしょう。

また「ケンちゃんシリーズ」をはじめ、あの頃のテレビに出ていた子供もみんな半ズボンをはいていましたし、
45/'70年には万博が開かれますが、ここを訪れた浩宮さまも、デニムの半ズボンだったのだとか。

そんなわけで、夏場はもちろん、都市部では冬のさなかでも、半ズボンの子供たちがうじゃうじゃおりました。(それは私です・・ちなみに真冬を半ズボンで過ごすと、足の皮が厚くなってすごいんですよ)

37生より上の世代では、中学に入っても半ズボンという人がいたらしいのですが、さすがに我々は、小学高学年あたりから徐々に長ズボンにシフトして行きます。
でも小学校の間は、はいてても別におかしくなかったよなぁ。
最後に半ズボンをはいたのがいつだったのか、思い出してみるのも面白いんじゃないでしょうか?
(ちなみにわたし、アルバムを見てみたら、5年の夏にははいてましたね)

どうもこんなに半ズボンが普及していたのは日本だけだったようで、
ヨーロッパではもう少し早く衰退し、アメリカではそもそも定着しなかったようです。
そういえば、当時の海外ドラマなんかに出てきた少年たちは、確かに長ズボンをはいていましたね。
何で日本だけ?という疑問に対する答えは見つかりませんでしたが、まぁ愛されたファッションであったことは間違いありません。

僕ら世代のの代表格、ケンちゃんこと宮脇健二が、シリーズの最後で中学生になり、
ついに半ズボンを卒業して、私たちはこのアイテムに永遠のさよならを言ったのでありました。


余談ながら(すまぬ)、この時期女の子たちがはいていたのは・・・吊りスカート。




ちびまる子ちゃんがはいてるやつですね。


当然ながら私ははいたことがないので何ともいえませんが、あれは吊ってないと落ちてくるものなんでしょうか?
昔から何となく気になっています。
漏れ伝わった話では、女性にとっては結構は着心地のいいアイテムらしいのですが。

こちらは半ズボンほど圧倒的ではありませんが、やはり女子の主流であり続けました。
また完全に絶滅することもなく、形を変えながら、今も存在しているようです。

ただし、37生におなじみの、サスペンダー部の巾が細くて、背中でバッテンになっているあのタイプは、なかなか見当たりませんねぇ。
そうそう「じゃりん子チエ」もはいてたなぁ。

とにかくおじさんとしては、子供のくせにブランドものの服なんか着てるんじゃないぞと、道行く小学生に説教したい今日この頃です。

・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2007/06/11(月) 09:55:35|
  2. 37生の毎日
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