昭和37年ブログ

昭和37年生の、昭和37年生による、昭和37年生のためのブログ

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駄菓子屋ゲームの悦楽

この間都内某所を歩いていたら、おもちゃ屋さんの横の路地に、とても懐かしいものを見つけたんですよ。

それがこれ

carlace.jpg


今なかなかお目にかかれないですよねぇ
昔は駄菓子屋とか、おもちゃ屋の前には必ずおいてあったゲーム機。
今でいうとアーケードゲームってやつですね。

しかももう一機種

catchboll.jpg


何がびっくりしたかというと、これ、2台とも現役で稼働しているんです。
今でも時々昔からの店に行くと、裏手でほこりをかぶっているのに出くわすことはあるのですが、
さすがに現役は珍しい。

じっさい、この写真をとっている時も、子供がやってきてコインを投入していました。
いまだに小学生の心をつかんでいるんですかねぇ。

そう、ゲームセンターこそありませんでしたが、37生の頃のゲーム機のコンセプトは、今日に至るまで脈々と受け継がれています。

例えば、今は「ガシャポン」と呼ばれているあれ。
私らの子供の頃は「ガチャガチャ」と呼んでました。
ダイヤルに10円はさんで一周ガチャガチャ回すと、カプセル入りのおもちゃが出てくるやつですね。

ワンコインというコンセプトだけは残って、今や500円だったりしますが、とにかく発明した人は天才だと思います。

カプセルの中身はまぁ、いかにも10円だったんですが、時々なんか高そうなものが混じっていて、それが外から見えるってのがミソですね。
今度こそあれを出すぞというわけで、子供は小遣いを巻き上げられる仕掛けです。
ただ、そういう小賢しいことをやるようになったのは、もう少し後期になって、悪名たかき「コスモス」なんて会社が進出してきてからで、
最初のうちは純粋におもちゃ販売だったような気がします。

いずれにせよ、うちでは、あの手のものは絶対にやらせてくれなかったので(なにせ小学一年生にこづかい帳をつけさせる家でしたから)
いつも羨望のまなざしで見てたものです。おもちゃが欲しいというより、あのガチャガチャ回すのをやってみたいんだよなぁ・・・・。


それから現在のUFOキャッチャーの原型
クレーンゲームってのがありました。
これは本当にクレーン、記憶では色も工事用の黄色と黒だったような気がしますが(かなり怪しい)、それが丸い機械の中にドーンとあるわけです。
で、今みたいにクレーンが動くんじゃなくて、景品の方が円盤状の台の上を回っているという形状です。

タイミングを見てスイッチを押すと、クレーンがダダダーと下がってきてガバッとつかみ、そのまま上昇。
丸い排出穴が下に来たところで、もう一度スイッチを押して、同じ動きをさせて品物を落とす・・・というシステムだったと思います。

景品はお菓子。
でも構造上、円盤の上の、クレーンの軌道上のものしか取れないんですね。
高そうなお菓子はこの軌道から微妙にずれるところに置いてあって、永遠に取れないのでした。

こちらは0か100かの緊張感、腕を上げることで確率の良くなる達成感が決め手でしたね。

ところでこの機械
クレーンが降りてつかむという動きが、2回できるだけなので、一回目でつかみ損ねると、2回目は無駄になってしまいます。で、やけになってボタンを押すと、それでつかめちゃったりするんです。
そうすると、つかんだはいいが、そこで機械は止まってしまうわけで、10円しか持っていない子供は、地団駄踏んで悔しがるんですねぇ。

この構造的欠陥のおかげで、後からやってきて、労せずしてお菓子を手に入れた37生も多いわけですが、(あと、排出穴の縁に引っかかったのを、機械を揺らして落としたりとかね)
こういうことを「漁父の利」というのだと知ったのは、はるか後のことです。
いずれにせよおおらかな機械でありました。

37生における、いわゆるアーケードゲームは、今日思い出した「駄菓子屋系」と
もうひとつ忘れてはならない「デパートの屋上系」があるのですが、それについてはまた次回

・・・・・(つづく)・・・・・
  1. 2007/02/27(火) 10:11:46|
  2. 37生の毎日
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37生の年の瀬(大晦日)

37生の子供の頃の正月というのは、1週間くらい平気で店が閉まっていたものでした。
商店街は、まさにゴーストタウン状態。
開いていたのは、子供からお年玉を巻き上げようという、あこぎなおもちゃ屋さんだけで、それだって元旦はシャッターを降ろしていたのです。

そんなわけで、新年はしばらく日用品が手に入らない。
仕方がないので、おのおのの家庭では、大晦日までに買いだめするのですね。
これが大変なんだ。
一日三回くらい買い物に行ってましたもん。

未だコンビニのなかった時代です。
例えば正月中にトイレットペーパーが切れたら、本当に一週間・・・・なわけで、世のお母さんたちも、念には念を入れて、買い物リストを作成していました。

もちろん大掃除や、その他諸々の年末行事と同時進行で行うわけですから、これが目の回るような忙しさなのでした。

そうそう、子供も子供なりにいろいろ大変でしたねぇ。

とりあえず、「自分の部屋をきれいにしなさい」なんていわれて、追いやられるわけですが、
子供ってのは整理整頓っていうものが、何より苦手。
自分の机を片付けるだけで、けっこうな大仕事だったような気がします・・・。

それで、なぜかこういう日に限って、
無くしたといって、新品を買ってもらった消しゴムとか、
親に渡し忘れた、学校のプリントとかが出て来て、叱られるんですね。

引き出しに入れておいたカマキリの卵が、知らぬまに孵化していたりとか・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
さて、大晦日です。
さすがにお父さんも家にいます。
すべてを終えて、ほっと茶の間に家族集合するのが、7時頃でしょうか。
お母さんが夕食を食卓に並べ始めます。

んでもって、

「レコード大賞」の始まりの時間ですよ。

37生の頃のレコ大は、視聴率40%を超えていたオバケ番組。
今年の受賞は誰だってのは、けっこうな関心事でした。(ちなみに最高視聴率は52/'77年の50.8%)

母親の肩を抱いて歌う小柳ルミ子とか、化粧が流れて、黒い涙を流す研ナオコとか、聖子ちゃんの嘘泣きとか・・・、
みんなこの番組でしたねぇ。(歌謡大賞だったっけか?)
司会は高橋圭三が定番でした。

70年代の大賞受賞曲は、

また逢う日まで
喝采
夜空
襟裳岬
シクラメンのかほり
北の宿から
勝手にしやがれ
UFO
魅せられて

懐かしいねぇ、ジュディ・オングなんてどうしてるかしらん?

レコ大が終わると、即座にチャンネルはNHKへ
9時からは「紅白歌合戦」です。

さっきまでTBSにいた歌手たちは、魔法のようにこちらに移って来ています。
もっとも受賞者の皆さんは、思いっきり間に合わないので、オープニングにはいませんでしたね。
11時45分までの長丁場で、最後は蛍の光の大合唱。
ここまで寝ないで起きていられた時には、大人になったなぁと思ったものです。

司会は37生的には、山川静夫と佐良直美かな。(わたしに時間を下さいの鈴木健二も捨てがたい)

南極観測隊の電報とか(なぜか紅組を応援)、応援合戦とか、いろいろお約束をへて、最後は「日本野鳥の会」が会場の札を数えて、勝敗が決まります。
予定調和の極みだったなぁ。

ちなみに、昨年までの勝敗は、紅28勝白28勝で、並んでいるらしいです。

ここまで来ると新年は目の前ですね。
「ゆく年来る年」

NHKvsオール民放の対決番組ですが、まぁ似たり寄ったり。
とりあえずどっかのお寺の風景から、ゴーンと除夜の鐘をつく坊さん・・・厳かなアナウンス。

今みたいにカウントダウンなどせずに、画面隅の時報で年越しを知るという、まぁ上品なものでしたね。

そう、あの頃は、そんなに大騒をしなくても「年越し感」が盛り上がっていたのでした。
・・・・・(おわり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/12/20(水) 12:23:15|
  2. 37生の毎日
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37生の年の瀬(クリスマス)

はい、今年もおしせまってまいりました。
世間もなんとなく慌ただしくなる年の瀬です。
あまり時節のご挨拶などしない当ブログですが、気がつけば開設以来一年近くがたちます。時に更新の滞ることもあるかと思いますが、ひとつ長い目で、今後ともよろしくお願いいたします。

さて、そんな神妙な書き出しも、実はネタ振りでして、
今回のテーマは年の瀬。
年末のにぎわいや、師走の過ごし方も、37生の時代はひと味違いましたよね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まず12月といえば、クリスマスでしょう。

なにしろ毎年12月24日にはいやでも学校が終わるわけです。
で、最後の給食には小振りのケーキが付いたりしたこともありましたね。(今でも覚えているところを見ると、よほど衝撃的だったんだろうなぁ)
野に放たれた37生の前には、クリスマスソングの流れる師走の街が・・・

まぁしかしこれは、37生がだいぶ大きくなってからの話で、
昭和40年代のクリスマスは、まだまだ今のようなしっくり感がないというか、所詮アーメン様のお祭りというか、なんか日本人の血肉になり切れていない部分も多かったように思います。

だいたい37生の子供の頃は、ようやくと「家庭でクリスマスパーティーをやる」というイベントを、おそるおそる始めた時期なんですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
何事も最初にやる時は力が入るものです。
あの頃はクリスマスツリーを飾ったら、部屋中にモールを張りつめ、モールがない家では、折り紙で鎖を作ったりして・・・・。
でも、オーナメントの数も少ないから、わけもわからず、折り鶴が下がってたりしましたね。
なんだか、小学校の「お楽しみ会」のノリです。。

がんばってクリスマスソングをかけちゃた家も多いのでは?
まだ山下達郎もワムもマライア・キャリーもいませんから、定番は「ホワイトクリスマス」とか「ママがサンタにキスをした」とか「そり遊び」とか・・・
ポータブルプレーヤーに、LPレコードですよ、時々針が飛んだりしてね。

クリスマスケーキは今と違って、ケーキ屋さんというものが一般的ではありませんでしたから、だいたいがお菓子屋で買うものでした。
例の「ケーキ屋ケンちゃん」は47/'72年放送ですが、この時ですら、「ケーキ屋なんてあるんだろうか?」というのが、一般の37生の感想なのではないでしょうか?



ケンちゃんは36年生まれ。同世代なのですよね


もちろんこの頃のケーキは、バタークリームで、大中小のホール買いが基本ですね。
で、ケーキの上には、まだイチゴなんかは乗っていなくて、赤とか緑の怪しいゼリー状の粒(あれ何ていうんだろう?)と、ウエハースかなんかで作った家とか、チョコのサンタクロースとか、そんなものが乗ってました。
思うに、どっか工場から運んで来るから、日持ちのする材料で作っていたんでしょう。

で、これが美味かったかというと、美味かったはずはないんですが、それでも美味かった。

なにせケーキなんて、年にいっぺんこの日しか食べられないものだったんですから。
うちの親父なんか、毎年ケーキを前に、
「家は貧乏だから、クリスマスじゃなくて、クルシミマスだ」って演説してましたよ。
まったく・・・・・。

それから一応シャンパン(という名前のよくわからないジュース)も抜きます。
子供にとっては、なかなかおいしいものなのですが、後に本物のシャンパンというのは、実はけっこう高い酒なのだと知った時は、ショックだったなぁ。

で、この偽シャンパン、栓の飛び方だけは、本物顔負けなんですよね。
うちじゃあ「俺に任せろ」といった親父が蛍光灯を割りました。
だから・・・・・・・・・。

そうそう、最近あんまり見ませんが、お菓子を詰めた、長靴ってのもありましたよね。
あれ、欲しかったんですよ。
boots.jpg

4人兄弟でひとつだけ買ってもらった長靴は、恐ろしいほどの上げ底で、奥には何にも入ってなかったものです。

お菓子の単価を足し算して、「ふん、ほとんど長靴代だ」とふんぞり返っていたのは、
やっぱり親父・・・・・・・・・・・。

あんまり書いていると、父親に対するトラウマでいっぱいになりそうなので、今日はここまで
・・・・・(つづく)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/12/16(土) 12:54:23|
  2. 37生の毎日
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ツッパリ番長を捜せ

突然ですが、番長と呼ばれる人に会ったことはありますか?
わたしはありません。
思えば37生はテレビ、マンガを通して、数多くの番長と接してきましたが、リアルの番長って本当にいたんでしょうか?

虚構の世界にはキラ星のごとく番長がおりました。
名作、本宮ひろしの「男一匹ガキ大将」のような硬派の正統派から、「愛と誠」に多数出演したバイオレンス系、「ど根性ガエル」のゴリライモのようなお笑い系、「巨人の星」のお京さんは、新宿の女番長という肩書きでしたね。

にもかかわらず、私たちの周りに番長はいませんでした。
いや、もちろんちょっと悪い子達はいましたよ。特に37生が小学6年生のあたりから、世の中に巻き起こった「ツッパリブーム」にのって、形だけそっちの世界に行った37生も多いでしょう。

元々は「嗚呼花の応援団」(50/'75年)とか前述の「愛と誠」(48/'73年)なんかが火付け役だったのかなぁ
それと「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」ね。だいたい小学校高学年から、中学生の頃ですね。
で、その頃から、ファッションとしての不良みたいのがでてきたわけです。それがつまり「ツッパリ」ですね。

37生が中学にはいる頃は、みんな微妙にその辺りを意識していて、学ランの丈がどうとか、髪型がどうのなんて、やっていたものです。
中ランとか、洋ラン(花じゃないよ)とか、ボンタンズボンとか、なつかしいなぁ。

まぁ、わたしはといえば、きわめて真面目なもので、タックズボンすらはいてませんでした。
何しろへんなの着てると、「屋上に続く階段の踊り場」に呼び出されちゃうんですね。
これは全国的な決まり事だったようで・・・。

それと決まり文句は「ツッパってんじゃねぇょ」ですね、お前がツッパってんじゃないかと、ひ弱なわたしは思ったもんですが・・・・。

最終的にこのツッパリブーム、「横浜銀蝿」とかの発展系をへて、「なめ猫」(56/'81年)あたりで収束していきます。



パロディーになっちゃうともう流行も終わりですよね。
「ツッパリ」という言葉は「ヤンキー」に取って代わられ、急速に世間から消えていったのでした。

話を戻せば、37生はこの「ツッパリ」君達を知っていても、それらを束ねる「番長」さんには、どうも会ったことがない。
その後現在に至るまで、虚構の番長は様々のところで生きているのに、いったいその原型になった本物は、存在したのか?時々考えるわけです。

元々がファッションですから、抗争事件とか縄張り争いなんてのを、リアルでやるのはおっくうだったんかもしれませんが、どうなんでしょうね?

もちろんこの手のことは、地域性が色濃く反映されているので、あくまで管理人の通った学校で見聞きした限りの話ですから、なかには命がけでやってた人もいたのかもしれません。

ちなみに九州は熊本出身の、同世代の友人によると、
彼の地では、文化祭の前の晩になると、市内のライバル高校が展示を破壊しにやってくるというのですね。
で、運動部の連中が寝ずの番で警備したと、そういうんですけど、本当ですかね?
本当だとすると、九州あたりにはいたのかなぁ・・番長
(それにしても熊本ってのはどういうところだ)

これを読んでいる方で、本物の番長を知っている方、あるいは自分が番長だったという方、ぜひお話を聞かせて下さい。
・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/04/20(木) 12:26:40|
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ヤクルトとエルビーと時々ローリー

昔のお母さんは内職をしていたものです。(断言)
うちの母親も時々何やら机の上にいっぱいに広げて、せっせとつくっておりました。
しかし内職というのは利が薄いわけです、箱ひとつ組み立てて3銭とかの世界でしたね。

そこでうちの母親はもうちょっと実入りのいい仕事に転身することになります。
それが「ヤクルトおばさん」です。

「ヤクルト」といえば、37生はもちろん、現在に至るまでかわらない超ロングセラーであります。
あの独特のシルエットのプラスチック容器をみれば、日本中誰でも「ヤクルト」!!っと叫ぶわけです。
けれども「ヤクルトおばさん」の息子からいわせていただければ、皆さん覚えていないようですが、ヤクルトにも瓶入りの時代があったのですよ。

ヤクルトの歴史は古く、開発されたのは昭和10年代のことです。
当初は普及事業という形で、商品に賛同した人々が、各地でバラバラの値段、容器で販売していたのですねぇ。
そして昭和30年にいたってようやく全国統一されたヤクルト本社がたちあがります。

そこで採用された容器は牛乳瓶を例のヤクルトサイズにしたものといえばわかっていただけるでしょうか?
ふたも牛乳と一緒。丸い厚紙で栓をして、透明のビニールがかけてありました。

それが43/'68年、37生が小学校に入る前の年、例の容器にかわるのです。まさに時代の波に乗った画期的モデルチェンジでありました。
一説によると、ヤクルトおばさんには、瓶では少々重量がありすぎるということで、軽量化が図られたのだとか。なかなか女性に優しい会社です。

ちなみに瓶入りの時代は、空き容器を牛乳同様に回収していたわけですが、この切り替え当初は、プラスチック容器を洗って返してくる方もいたんですよ。
昔の日本人は律義でした。

さて、当時ヤクルトのライバルに「エルビー」というブランドがありましたな。
容器の大きさはヤクルトと同様ながら、流線型のフォルムでした。
味もまぁ似たようなもので・・・・。
私の住んでいた地域では、けっこうヤクルトといい勝負をしておりました。
うちはもちろんヤクルト派だったけれど、地域によってはエルビーが強かったようです(愛知の会社です)

その後順調にのびたヤクルトに対して、エルビーの方はすっかり聞かなくなったなと思っていたら、いつの間にかなくなっちゃったみたいです。
今は流行りの黒酢なんかを販売している、マニアックな会社になっています。

ちなみに他にも、「雪印ローリー」や「森永マミー」なんかがありました。こちらも結局「ヤクルト」の牙城を崩すことはできませんでしたね。

思うにやはり、あの容器のユニークな形が最後の決め手だったんじゃないかなぁ。
ヤクルトは、けっこう細かい所に気を使う会社で、たとえば容器にふたをしているフィルム、あれは毎月色を変えていたりしましたね。
それから、空容器を使った工作コンクールだとか、いろいろ企画してました。
(うちにはヤクルトだけは売るほどありましたから、夏休みの工作ではけっこうお世話になりました)
蛇足ながら、むちゃくちゃ弱いながらヤクルトアトムズという球団をもっていたことも大きいかもしれませんね。(45/'70年の勝率2割6分4厘!!)

というわけで、しっかりした経営のヤクルト、まだまだなつかしの一品にはならないようですね。
・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/04/12(水) 08:07:24|
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