昭和37年ブログ

昭和37年生の、昭和37年生による、昭和37年生のためのブログ

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だるまさんが転んだ論争

「だるまさんが転んだ」って知ってますよね。
こういう遊びは日本全国共通かと思っていたのですが,そうでもないのです。

大学の時に,静岡から来た学生は言いました。
それはお前,「インディアンのふんどし」っていうんだよ。
なに?「インディアンのふんどし」?
話を聞くとルールは一緒です。・・・・・・・なるほど,同じ節回しで歌えるなぁ

そかそか、地域によって歌がかわるんだな。
と、一同感心していると,いきなり京都から来た学生が言ったのです。

なにゆうとるの、それなら「ぼんさんがへぇこいた」でしょ。
・・・・・・・おい,節も変わるんかい?

こどもの遊びというのは,どうもローカルルールが幅を利かせるようです。

じつは、前に書いた「数え歌、はやし歌、へんな歌」のエントリーに、やす様からコメントをいただきました。
それによると,大阪,守口市あたりでは、あの「泥警」も、節を付けてやるそうです。

「いろはにこんぺいとう。盗ってにげるは泥棒の子。それを追うのは巡査の子」
なんか楽しそうですよねぇ。

「泥警」は説明するまでもなく,泥棒チームと警察チームの鬼ごっこですが,うちの方では(関東です)黙ってやってました。
「泥警」という名前も,土地によって「警泥」だったり「巡泥」(巡査と泥棒)だったりするようですね。
他にもはやし歌をつけてやる地方は多いのでしょうか?
ご存知の方いらっしゃったら,ぜひ情報を寄せて下さいませ。

ところで,やす様によると、「靴隠しの歌」というのがあるそうです。
「靴隠しちゅうれんぼ。橋の下のネズミが草履をくわえてチュッチュクチュ。チュッチュクチュ饅頭はだれがくた。誰も食わないわしがくた。となりのおばはん三味線屋。裏から回って三軒目一二三」
おぉ,どうやって遊ぶんでしょうねぇ。

触発されて,思い出した遊び歌を一つ
「あーぶく立った煮え立った。煮えたかどうだか食べてみよ。
むしゃむしゃむしゃ。まだ煮えない。
あーぶく立った煮え立った。煮えたかどうだか食べてみよ。
むしゃむしゃむしゃ。もう煮えた。
ご飯食べて,お布団敷いて,寝ましょ。
とんとん。・・・・・何の音?・・・・風の音・・・・・あーよかった。
とんとん。・・・・・何の音?・・・・風の音・・・・・オバケの音。」

長いなぁ。でもご存知でしょ?
・・・・・(終わり)・・・・・
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テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/02/28(火) 21:00:12|
  2. 流行り・遊び編
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タミヤ1/35の誘惑

プラモデルに目覚めた37生は、それぞれ専門分野と言いますか、自分のつくる物の方向性を定めていくことになります。
例えば、静岡のプラモデル会社4社が分担して出していた、ウォーターラインシリーズとかね。(全部つくると連合艦隊が完成するのだ)
つくる喜びに集める喜びがプラスされるんですねぇ。もう、男の子の心をつかみまくりなわけです。

さて、当時一番人気があった、模型会社のシリーズものといえば、それはもう、タミヤ模型の1/35、ミニタリーミニチュアシリーズでしょう。
↑いや、異論はあるかもしれませんが、何たってわたしがはまってたんですから、そういうことにしておいて下さい。

これは第2次大戦中の米英独軍を中心にした、軍事車両と兵隊の模型シリーズでした。
「ドイツ3号戦車」「キューベルワーゲン」「ケッテンクラート」「88ミリ砲」・・・なんてね。次から次に名前が出てくるばかりではなく、空で絵に描けますもの。そののめり込みようが分かっていただけると思います。




こんなのとか



こんなのとかね

このシリーズの新しかったのは、兵士の人形を多数発売したことで、車両と組み合わせた「ジオラマ」(日本語て言うと情景ですな。まぁ箱庭のようなものだと思って下さい)を提唱したことでしょう。
タミヤ模型というのは、当時模型の金型の分野では、おそらく世界一だった企業で、1/35というサイズにもかかわらず(人間が約5cmの大きさでした)、非常に細かく、リアルな製品を提供していました。
で、それらをただ作るだけではなく、風景の中で組み合わせて、物語性のある展示を仕掛けたのですね。

さらに、そんな「ジオラマ」に欠かせない、地面だの建物だのを作るテクニックや、さまざまの情報を、「タミヤニュース」
(たしか価格は50円だったな)という小冊子で啓蒙したり、
半年に一度くらいは「パチッ特集」という、ユーザーが作った「ジオラマ」写真集まで出して、大いにブームをあおったのでした。

これがかっこ良かったんだよなぁ。
こずかいをためては、「今度はイタリアの戦車が出るらしいから、アフリカ戦線のジオラマを作ってみよう」とか、「ロシア戦車の無骨さもいいけど、ドイツ戦車のメカニック感も捨てがたい」なんて、行きつけの模型店で悩んでいたものです。(どういう小学生だ)

やがて、小学校も5、6年になると、ただ組み立てるだけではなく、塗装をしたり、改造を施したりと、よりディープな世界にどっぷり沈んでいく37生も出てきます。(だからそれは自分だろうが・・・・)
実際その頃のわたしは、何を考えたか、タミヤ模型に手紙を書いて、新製品についての提案などを行っておりまして、信じられないことに、後日まさにその製品が発売になるという、栄誉に浴したりしています。
もしかしたら、将来は模型屋さんになるかもしれないなんて、ほんの少しは考えていたくらいでしたね。

こうして模型世界の闇に立ち入った一部の37生は、やがて鉄ちゃんになるもの、人形改造が高じて、フィギュアの世界に入るもの、はたまたガンダム系に進むもの、みんな立派なオタクになっていくのでした・・・。
・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/02/27(月) 18:00:22|
  2. 流行り・趣味編
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プラモデルに目覚める頃

管理人は男の子なので、女の子の間の流行りとか、遊びとかにはちょっと疎いわけです。
37生の女の子達がはまっていたのって何なんだろう? 「リリアン」とか?

で今回取り上げるのも、究極の男の子の趣味。プラモデル作りであります。
多分途中から女性の方はまったくついてこられなくなると思いますが、ご勘弁を・・。

37生が初めてプラモデルを作ったのはいくつの時でしょうか?
わたしの場合小学校の4年くらいかなと思いますけど、だいたいその頃一番安いキッドが100円でした。
今から思うと異常に格安なのですが、100円といっても、当時の物価水準からすれば結構なもので、実際のところは月に1つ買うのがやっとでしたね。
まぁおこづかいに余裕のある、ちょっとお兄さんの趣味だったわけです。

その頃100円で買えるのは、戦闘機の模型がメインで、定番の「零戦」とか、「紫電改」とか、「ヘルキャット」とか、そんなものを作っておりました。(女の子はそろそろ分からないでしょ^^;)
構造はきわめてシンプル。
二つ割れの胴体をくっつけて、これまた二つにスライスされている、左右の主翼を組み立てて、差し込む。あとは尾翼とタイヤをつけて、パイロットを乗せ、風防をくっつける。
子供でも30分でできました。(あっプロペラがついてないぞ)

でもこれ、きれいに作るのはけっこう難しかったですねぇ。
最近のお子様用のプラモデルは、全部はめ込み式らしいのですが、37生の頃は、あの体に悪いトルエン入りのセメダインでしっかり固定する仕様です。
このチューブ入りのセメダインが、気をつけないとはみ出して、糸を引くわけです、しまったと思って、手で拭おうものなら、白っぽい痕になって、取り返しのつかないダメージを負うのでした。

それからデカール!
日の丸だの認識番号だののシールですね。これをきれいに張るのが至難の業でした。
水につけておくと、シールの部分が台紙からはがれて浮いてくるのです、これを上手にすくいとって機体に張るのですが、すぐ破れるし、下手に折り曲げてくっついてしまったりすると、まず修復は不可能でした。
水に入れるタイミングも難しくて、つけすぎると浮いてきた文字があちこちに泳ぎ出し、これまた収拾がつかなくなったものです。

というわけで、十字マークが片翼だけの「メッサーシュミット」とか、左右で認識番号の違う「スピットファイアー」なんてのをいくつも作りました。
まぁ子供でしたからね、最初のうちはとりあえず飛行機が完成すればそれでよかったんです。

あとは、まがりなりにも仕上がった飛行機を片手に、日がな「ブゥーン」とかいいながら、空想の世界に遊ぶわけですな。
当時の37生には、当然のことながら、第二次大戦は、どことどこが組んだかなんて知識はありませんから、(日米が敵だったくらいは知っていたけど) 「零戦」と「フォッケウルフ」の空中戦など、日常茶飯事なのでした。
(あっ「フォッケウルフ」てのは魚民のメニューではなくて、ドイツの戦闘機ね)

やがてそんな37生のうち何人かは、単純な空中戦では物足りなくなっていくのです。




・・・・・(つづく)・・・・・

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  1. 2006/02/25(土) 10:58:42|
  2. 流行り・趣味編
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ローラーゲームと東京ボンバーズ

ローラーゲームとは何か?
子供の日のわたしは、ある時テレビで衝撃的なCMにであいます。
曰く「殴る!蹴る!つぶす!話題スポーツ、ローラーゲーム!!」
殴ったり、蹴ったりしている時点でスポーツじゃない気もするんだけれど、とにかくそんな過激なコピーでした。

やがて、カルトな番組を数多く放送してきた「東京12チャンネル」(現テレビ東京)で、「日米対抗ローラーゲーム」という番組が始まります。
47/'72年、4年生の時、毎週月曜日でした。(司会は土居まさる)
ちなみに当時の番組表を見てみると、

6:00マンガ大作戦 
6:15カバトット 
6:27キッド・ボックス
6:45マンガのくに
7:00きんきんケロンパ歌謡曲 
8:00日米対抗ローラーゲーム
9:00プレイガール
10:00外科医ギャノン

というラインナップです。(いや、本題に関係ないけど、むちゃくちゃ懐かしかったもので・・・)

さて、このスポーツ、1930年代のアメリカ生まれで、70年になってようやく日本に入ってきたものでした。
アイススケートのショートトラックくらいのリンクで、1チーム5人ずつ、2チームに別れて戦うもので、1分間に、攻撃側のジャマーというポジションの選手が、相手側の選手を何人抜けるかで、得点を争います。
当然、防御側は抜かれないように邪魔するわけで、そのせめぎ合いで「殴る、蹴る」になるのですね。

で日米対抗というからには、アメリカから、敵役のチームが乗り込んでくるのです。
「ニューヨーク・チーフス」「デトロイト・デビルス」「ボルチモア・キャッツ」なんてね。
一方迎え撃つのが「東京ボンバーズ」です。佐々木ヨーコとか小泉博なんて選手がいましたな。
これらのチームが、毎週格闘技まがいのゲームを見せていたわけで、ほとんど力道山vsシャープ兄弟の世界です。

しかもこの番組に触発されて、日本の子供の間では、一躍ローラースケートブームが巻き起こりるのですねぇ。
今の子供にローラースケートというと笑われるそうですが(インラインスケートというらしい)、あの頃はまだ靴の上に履くタイプ、自動車のような4輪のタイヤで、ガチャガチャ滑っていたものです。
当時はヘルメットも肘当てもなかったのに、コンクリートの上で、果敢にコーナーを責めてましたね。昔の子供は逞しかった。
その後も、未来世界を舞台にした「ローラーボール」なんていう映画が作られ(50/'75年)、日本のチームとして「ボンバーズ」が出演したりしていました。

しかし流行りものの常で、ブームはあっという間に過ぎ去り、76年には番組も終了、それとともに「ボンバーズ」も解散してしまいます。
本場アメリカでも、衰退していますが(市場調査をしたら、このスポーツのファンが、貧乏人ばかりだということが判明し、スポンサーが離れたのが原因だそうだ。資本主義恐るべし)、根強いファンは今でも各地に残っているそうです。

あの、すぐねじが緩んでしまう、下駄のようなローラースケートは、しまい込まれ、やがて忘れられてしまいます。
けれど世代的に、ローラースケートの上手い下手を問うならば、40代前半は間違いなく、日本人の中で一番上手に滑る年代なのです。
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/02/24(金) 09:17:14|
  2. 流行り・遊び編
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ココアシガレットで一服(駄菓子 3)

まだまだ忘れがたい駄菓子は尽きませんね。

例えば「ココアシガレット」(オリオン)なんてどうでしょう?




昭和26年より発売されていた超ロングラン、巻タバコ型チョコレートです。

当時の価格はなんと5円。現在でも30円という超お値打ちの一品ですね。
これを買ってもらって、大人のまねして一服・・・・あなたもやったでしょ?

このチョコは、ピーク時にはなんと、年間1800万個も出荷していたそうです。 
すごいですねぇ。
大人の形状と、甘い味というミスマッチが、何ともいえぬ一品でした。

ただちょっと食べ方に悩むのですよ。巻き紙を外してしまうと面白くも何ともないけれど、紙をつけたままだと食べづらいし、汚い。
先から少しずつ食べて、リアリティにこだわったりしたものですね。
結局、こそげとるように、ぐちゃぐちゃに食べるのが一番美味いのかな・・・。

チョコといえばあと二品。
「ライスチョコレート」と「チロルチョコ」を取り上げましょうか。

「20円? これじゃ何にも買えないよぉ」
「ライスチョコレートがある!」
「とーさん!!」

のコマーシャルで一世を風靡した「ライスチョコレート」
クランチというか米はぜというか、とにかくよく分からないものの入った不思議なチョコでした。
肝心のチョコよりライスが多めなので、なんかだまされたような気になったものです。
まっ、だから20円だったのですけれど。
安いものにはそれなりのわけがある。世間の現実を知った37生でありました。

ちなみにCMのトーサンというのは発売元の名前で、今は東チョコといいます。
昭和34年の発売時には10円だったそうで、当時から一番安いチョコレートという、コンセプトで押していたようですね。

一方、松尾製菓の「チロルチョコ」は37年の発売。「ライス」に対抗するように、こちらも10円でした。
しかし、さすが関西の会社らしく、チョコはしっかり全部チョコ。しかも今より大きかった!!!
やるじゃないですか、もうライスチョコの立場無しですね。

悲しいかな、ご存知のようにその後小さくなってしまいますが、10円の価格はかたくなに守っています。
近年では、この「チロルチョコ」の販売、企画だけのために、チロルチョコ株式会社を立ち上げて、新製品の開発に当たり、80種近くものチロルを出しているようです。

駄菓子から、堂々のブランド菓子へと脱皮した希有な例ですね。
37生と同時に誕生して、ここまで育ってきたことを考えると、人生重ねてしまうのは・・・・わたしだけですね。
・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/02/22(水) 08:07:32|
  2. 37生の毎日
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都こんぶとベビーラーメン(駄菓子 2)

駄菓子が長く生き残るポイントは何なのでしょうか?

「都こんぶ」(中野物産)は駄菓子のロングランヒットです。なんでも戦前からあるらしいですよ。
駄菓子というのは、あまりウマくないものなのですが、「都こんぶ」はうまかった。
好き嫌いはあるでしょうが、わたしは今でも時々食べたくなりますね、(てか、食べてるし・・・) 
昭和44年、37生が小学校に入る頃は絶頂期で、10円20円30円50円と、分量と品質で値段が違う、4種類を出していたんだそうです・・・まめ知識でした。





ところが、人工甘味料「チクロ」の使用禁止で、その後、中野産業は一時倒産の危機に陥ってしまいました。
新たな無害な甘味料を発見するまで、都コンブは姿を消した時期があるのですね。
おぉ、またまたまめ知識

しかしコンブ菓子の根強いファンは復活を信じてまっておりました。
駄菓子でもなんでも、ほんとうに心に響く味のものは生き残るということでしょう。

・・・・・・・・・・・

心に残る味の駄菓子、ということではもうひとつ、
おやつカンパニーの「ベビースターラーメン」を取り上げましょう。

babyramen


元々はおやつカンパニーなどというしゃれた名前ではなくて、松田産業というありふれた名前の会社でした。
商品名も当時は「ベビーラーメン」
要するに言葉は悪いですがチキンラーメンのくず?みたいな食べ物でした。

でもこれがウマいんですよね。
チキンラーメンも生でガリガリやるとうまかったものねぇ。

で今回調べて分かった驚愕の事実なんですが、この松田産業、本当にインスタントラーメンを作っていたのです。
で、工場からでためんの残りをなんとかしたいと考えたのが、「ヘビーラーメン」だと・・・・・。
つまりあの「ベビーラーメン」、ラーメンのくずみたいな食べ物なのではなくて、実際ラーメンのくずなのでした。

当時ペピーラーメン3袋にお湯を注いで食べたら、「チキンラーメン」になったと主張していた友達がおったのですが、あれは誇張でもなんでもなかったのですね。
わたしは密かに、んなことしてもまずいだけだろと思って馬鹿にしていたものです。
ゆるせよ。

製品は34/'59年発売、当時10円。48/'73年にベビースターラーメンと改名し、現在は30円です。
おやつカンパニーになってからは、一段と営業努力に磨きがかかり、ベビースターラーメンは、喜多方ラーメン味とか、とんこつラーメン味など、地域限定で10種類ものバリエーションを出しています。
もちろん今は専用工場で作っているそうです。

上手くて安い駄菓子。考えてみればこれほど強力なものもないわけで、今後もこの2銘柄、永遠でしょう。
・・・・・(つづく)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/02/21(火) 14:36:11|
  2. 37生の毎日
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ホームランバーをもう一本(駄菓子)

買い食いというのは、私ら貧乏人の子供には、一種背徳の匂いがしたものです。
小学校低学年当時、月に150円しかおこづかいをくれないのに、こづかい帳だけは、しっかりつけさせて、その上、買い食い禁止令の出ていた我が家。
夏場に「名糖ホームランバー」をおごってくれた友達のことは、(いや、顔も名前も忘れたけれど、とにかくあのアイスの味だけは、)忘れていないのです。

しかし、買い食いはできませんでしたが、うちの親だって、時々は安めの駄菓子を買ってくれることもありました。めったに口にしないものですから、たまに食べられたときの甘美な記憶は、しっかり刻まれてますよ。
というわけで、今日からはなつかしい駄菓子のお話。

まずは前出の「名糖ホームランバー」から。
この伝説のアイス、発売は37/'62年で、まさに私たちと同じ年に生まれているのですね。
価格は最初が10円。37生の小学生の頃は30円くらいかな。
サイズが小さめで味はまぁ普通ですね。
外見は銀紙に包まれていて、アイスキャンディーではなくてアイスクリームがスティック状になっているものでした。
なんでもこのタイプは、当時日本初登場だったようで、銀紙も別に経費削減のためではなく、アイスがくっつかないようにという工夫なのだそうです。

しかしなんといってもこの商品、当たりがあるんですよ。
スティックにホームランの焼き印があるともう1本、ヒットの焼き印なら、3本集めて、やはりもう1本。
もう、必死になめてたものです。

この手のものは、むやみに子供心を刺激するもので、当たり欲しさにアイスはこれと決めていた37生も多いはずですね。
現在はバラ売りはしていなくて、パック売りだけらしいので、もう当たりはついてないんだと思われます。

ちょっと残念ですねぇ。
・・・・・・・・・・・・

さてもうひとつ、当たりものというならば、マルカワ「オレンジフーセンガム」を外すわけにはいかないでしょう。
4個入10円で、オレンジコーティングの甘いガムでした。

marukawa

↑これだぁ

ちなみにフーセンガムといいながら、ちっとも膨らまなかったのは、わたしが悪いのか、ガムがいまいちだったのかは、永遠の謎です。

四角い箱を開けると、ふたの耳のところに当たりのマークがついて、店のおばちゃんにもう一個もらいにいくシステムでしたね。
これはけっこう当たった思い出があります。ホームランバーよりはるかに確率が良かったような・・・・気のせいか?
もらったもう一個が再び当たって、またまたおばちゃんのところにいくのを、ちょっと遠慮したことがあった、シャイなわたしです。

発売は34年ということで、やはり相当なロングランなんですねぇ。(今は6個入り20円になってるそうです)

両方とも25年以上食べていないけれども。甘ったるい味は、あのドキドキ感と一緒に、記憶の中に今も残っているのでした。
・・・・・(つづく)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/02/20(月) 07:51:46|
  2. 37生の毎日
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時代とコース(学習雑誌の系譜 2)

「科学」と「学習」で育った世代は、小学校卒業とともに、ある選択を迫られました。
すなわち、中学でも雑誌をとるのか? とるとしたら「時代」か「コース」か? 百恵ちゃんか淳子ちゃんか?であります。

「科学」と「学習」を出していた学研が、そのままの流れで中高生向に出していたのが、「中一コース」~「高三コース」。
これに対して旺文社が発行していたのが「中一時代」~「蛍雪時代」です。

体裁も内容もまぁ似たり寄ったりだったわけですが、個人的なことを書かせていただければ、「科学」と「学習」には寛容だったうちの親が、「時代」「コース」にはどうも理解がなく、わたしはどちらも購入していなかったので、あんまり内容については語れないのですね。

芸能、マンガ、学習、文通募集に、悩み相談と、まぁ総合誌なんですが、
ただ、さすがに受験産業、旺文社発行の「時代」の方がお勉強にシフトしていたようで、言い換えれば「コース」の方がくだけていたと、そういう評判でした。

両誌とも栄枯盛衰があるのですが、37生の頃から数年間が、勧誘合戦の一番激しかった時期ではないでしょうか。
まずキャラクターに、「時代」の百恵と「コース」の淳子が起用されます。
このふたり、富士ヨット学生服とカンコー学生服でもキャラクターで、火花ちらしていましたねぇ。
しかし森昌子の立場はどうだったんだろうと・・・・まぁしかたないな・・・。

百恵ちゃんが
♪わたしが読んでた中1時代、いまあなたにぃw 中1時代ぃw♪
と、ちょい低めの声で歌えば、淳子も負けじとサイン入り万年筆をプレゼントする。
今でこそ百恵の人気が高いですが、当時は淳子だってなかなかのものでした。
♪カンコーぉ、カンコーぉ、カンコー学生服っ♪
なんてね。(男装の彼女はかわいかったんだぞと、これは密かに淳子派だったわたしの心の声)
コマーシャルは、ばんばん流れてましたし、百恵ちゃん、淳子ちゃんからのお手紙攻勢なんてのもありました。
(ちなみにその後もプレゼント合戦は激化を続け、37生の頃の万年筆が、やがてはラジオになったりしたものです)

まぁ公平に見て、37生の人気は二分されていたといっていいでしょう。甲乙つけがたいってやつですね。
だから森昌子の立場は・・・・どうでもいいか。

さて、かように盛り上がった両誌ですが、その後徐々に部数を減らしてしまうんですねぇ。
別に「時代」や「コース」でなくとも、面白そうな雑誌が山のように創刊され、また内容も細分化されていったことで、総合誌には人気がなくなったためだそうです。

まず「時代」が'91年に廃刊。(「蛍雪時代」だけが、今も純然たる受験専門誌として、電話帳みたいなサイズで出版され続けています)
「コース」は'99年までがんばりましたが、やはり廃刊になります。ちなみに最後の表紙を飾ったのはジャニーズJrであったそうです。

思えば百恵は芸能界を離れて久しく、淳子も事実上引退。いまだなんとか現役なのは、なんと森昌子だけだという事実
諸行無常の響きありですな。
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/02/18(土) 18:17:38|
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科学と学習(学習雑誌の系譜)

学習雑誌というものがありました。
代表格が「科学と学習」、正確には「科学」と「学習」という別々の月刊雑誌で、学習研究社から出版されていました。(今も出ています)

当初この出版社は小学校ときわめて良好な関係にあったようで、毎月学校まで売りにきていたものです。
その後まぁいろいろ問題もあったのでしょう、学校外で販売するようになり、やがては学研のおばさんによる配達になったりしたようですが、その頃はもう37生は小学校を卒業しております。

うちの親はへんなところが太っ腹で、この雑誌は両方とも購入してくれました。
単純に「科学」が理系、「学習」が文系の内容でしたね。
両方とも、毎月付録がついていたのですが、これはなんといっても「科学」の方が見栄えがしたし、子供心に欲しいものが多かったように記憶してます。「学習」はテキスト中心でしたから、イマイチ感があったものです。

以下思い出すまま「科学」の付録を・・・・

「日光写真セット」
要するに青焼き写真なんだけど、葉っぱとかをのせて日にさらすと、陰の部分が浮き上がる仕組みですね。水で濡らすと定着するんだよね。
青焼きの印画紙が10枚くらいしかなかったんで、2日で終わった付録。

「アリの飼育セット」
アリってのは何匹かつかまえてくれば、必ず穴を掘るものらしくて、だんだん巣が掘り進められていくのを見るのは、確かに楽しいものでした。でも、女王アリなんぞを捕獲するのは、小学生には無理な話で、だから雑誌に書いてあるように、卵や赤ちゃんアリの部屋なんかありませんし、コミュニティを成立させるには、アリの数も、飼育期の大きさも、圧倒的に不足だったと思います。
そのうち進展がなくなって飽きちゃったですね。あのアリどうしたんだっけか・・。

「恐竜の骨格模型」
これはかっこ良かったですねぇ。しばらく机の上に飾ってありました。
翌年からは人体骨格模型に変更になって、弟が持っていたんですが、こっちの方が欲しかったなぁ。

「酸性、アルカリ性判定キット」
確か試験管と試験管立てがついてたんじゃなかろうか?
欲しいアイテムでしたよ。もしかしてスポイトもついてたかもしれない。
しょう油だの洗剤だの、家中の液体を採取しましたねぇ。ママレモンを持ち出して親に怒られたっけ。

「科学」の付録というのはけっこう期待させる割に、うまくいかないこともままあって、毎回毎回、ちょっとだまされたような気になるのが、ポイントなんですよ。
次の付録こそはすごいぞぉってね。

一方の学習ですが、「石膏で作るコインセット」(石膏型で小判とか和同開珎とかを作って、金粉をこすりつけるという代物)みたいなのもありましたが、「科学」ほどのエンターテーメント性はなかったですね。
ただ、年に一度くらい読み物特集みたいな冊子が出たように思います。
これはけっこう楽しめました・・・一応文学への目覚めですかね。
冒険もの、推理もの、感動ものと一通りの分野をカバーしていたけれど、・・・そういえば男の子向けと女の子向けに別れていたかもしれないなぁ。(自信なし)
今となっては女の子向けの方が面白そうだけど・・・・・。

そうそう、これは付録ではないのですが、「6年の学習」だったかな、みつはしちかこさんが、例の小さな恋の物語風の、詩とイラストの見開きページをやってました。
主人公が、あこがれのK君への思いを綴る、みたいなものだったと思いますが、告白します、わたしけっこう好きでしたあのページ。
ああ、甘ずっぱい。
・・・・・(つづく)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/02/17(金) 10:13:02|
  2. 37生の毎日
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なつかしのクイズ番組で100万円

外国に行ってテレビを見た時に気がついたのですが、「クイズ・ミリオネア」って世界中でやってるんですよ。
いや、みのもんたが世界的人気者ということではなくて、それぞれの国にそれぞれの「ミリオネア」があるんです。
司会者も制作テレビ局も違うけれど、セットはビミョーに似ていて、ルールはまったく同じというわけです。

でも、日本の1000万円という賞金は、世界的に見ても破格に高いのだそうです。
さすが衰えたとはいえ経済大国ですな。

そこで今回はこの賞金(商品)にからめて、懐かしいクイズ番組の数々を振り返ってみましょう。

さて、わたしの個人的に印象に残っている、最も古い賞金獲得番組といえば「がっちり買いまショウ」(38/'63年開始)です。
夢路いとし喜味こいしのコンビが司会で、どっちだったか忘れましたが「10万円、7万円、5万円、運命の分かれ道」と叫んで始まる、買い物バラエティーです。
会場いっぱいに商品が並んでいて、参加者が選んだ商品の総額が、設定額の-4000円くらいに収まると、ただでもらえるという、まこと物欲を刺激する番組でした。

とはいっても、賞金換算だと10万円が最高額、今なら親戚の多い小学生のお年玉ですがね。
昔は商品選んでまわるだけで、どきどきわくわくしたものなんです。いい時代だなぁ。


続いてこれを、アレンジしたのが「目方でドーン!」。司会は「三波晴夫でございます」のギャグで一世を風靡した、レツゴー三匹です(しかしすごい名前だよね)。
内容は「がっちり買いまショー」とほとんどおなじなのですが、金額ではなくて、参加するカップルの女性の体重分だけ、商品がもらえるという趣向。
最後に、商品と女性が天秤に乗って、釣り合うかどうか?というのがビジュアル的に新しかったですね。

これも賞金は一概にはいえませんが、まぁせいぜい数十万相当、まだまだかわいいものです。


正統なクイズ番組としては「アップダウンクイズ」(38/'63開始)あたりが先駆けでしょうか?
正解するとゴンドラか上がり、不正解なら下がる。じつに分かりやすい構成でした。
10問正解すると、ゴンドラに飛行機のタラップが横づけされ、上からおりてくるという趣向でしたね。

優勝はハワイ旅行。当時のハワイ旅行は結構な値段だったとは思いますが、今だと15万くらいで1週間滞在ですかね。キャチフレーズも番組開始の頃は「夢のハワイに行きましょう」だったのが、途中から「さぁ、ハワイに行きましょう」に変更になりました。


このあたりから日本はクイズ番組ブームとなり、賞金もつり上がります。

「タイムショック」(44/'69開始)は、印象深い番組ですよね。
司会は二枚目俳優、田宮二郎。音楽もスタイリッシュで5秒ごとに問題が矢継ぎ早に繰り出されるスタイル、とにかくかっこいいクイズ番組でした。
正解が少ないといすが回りながら降りてきたり、出題者が低音で「昨日の明日のあさってはいつ?」なんて引っ掛け問題みたいなのを出したり、どきどきさせたものです。

ちなみに賞金はついに100万円。他にもスポンサーからの賞品がたっぷりついておりました。


「ベルトクイズQ&Q」(44/'69開始) 「司会は押坂忍です」という台詞だけがやけに印象に残っているクイズ。月曜から金曜まで、お昼に帯でやってました。(だからベルトクイズなのね)
かの「ちびまる子ちゃん」のおじいさん、友蔵が出演したという伝説のクイズ番組ですね。

賞金は開始当時がなんと270万円!! その後法律で100万までに規制されたといいます。
この公取委の取り決めは、いかんともしがたかったようで、だいたいここから先は、どの番組でも賞金は100万円の時代が続くことになります。
ちなみに「100万円クイズハンター」という番組では、システムとして100万円以上の商品をえることが可能だったのですが、実際には100万を超えた部分についてはもらえなかったといいます。(知らなかったでしょ?)


そうして37生の頭の中には、クイズ番組は賞金100万円という常識が形成されていくのですね。
それがいつ1000万でもOKになったのか、もうこのブログで扱う時代を過ぎてしまうので(少なくとも昭和が終わったあとです)、詳細は調べていないのですが、37生的には100万円ももらえれば充分なのです。

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  1. 2006/02/16(木) 17:55:03|
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札幌オリンピックの金銀銅独占

オリンピック見てますか?
37生がオリンピックに目覚めたのは47/'72年、小学4年生の時ではないでしょうか?
当時はまだ夏季と冬季のオリンピックが同一年度に行われており、この年は文字通りオリンピックイヤー。
2月3日に札幌オリンピック、8月26日にミュンヘンオリンピックが開幕しています。

その前のオリンピック(冬はグルノーブル、夏はメキシコシティ)も、年齢的に少しは覚えていてもいいはずなのですが、小学1年くらいだとあまりスポーツには興味がなかったのでしょうか、まったく記憶にありません。
アニメだったら5歳くらいのものでもよーく覚えているのに、不思議なものです。

というわけで、今回はアルベールビル大会開催記念ということで、札幌冬季オリンピックを思い出してみましょうか。

さて、37生にとって札幌オリンピックといえば、ジャンプなのです。
というか当時の全国民的に、ジャンプです。
もう何たって日本選手は、これしかいいところがなかったわけで、すべてはここに始まり、ここに終わるみたいな感じでした。
そうそれが、笠谷、今野、青地、三選手による、伝説の「金銀銅独占」であります。

今だと、ラージヒル、ノーマルヒルというのですが、当時は90m級、70m級。
この70m級の方で、それまでの冬季オリンピック全部ひっくるめて、銀メダル一つしかとったことのない(猪谷千春・'56コルティナダンペッツォ大会・アルペンスキー男子回転)日本が、表彰台を独占してしまったのです。

わたしこの時の70m級決勝、ライブで観ておりました。ということは日曜日だったんですかね?あるいは建国記念日か?
日本の3選手は先に飛び終わり、あとは外国選手が飛ぶたびに、アナウンサーが、「ニッポン、金銀銅独占なるか」と興奮気味に繰り返していたのをよく覚えています。

この快挙は、もちろん選手が(特に笠谷)世界のトップクラスだったこともありますが、できたばかりの宮の森シャンテで、徹底的にジャンプ台の特徴をつかんだ、地の利の勝利でもあったようです。

あの頃のジャンプは今と違って、ジャンプ台を滑り降りていく時は、手を顔の前で拝むようなポーズをしていましたね。おそらくその方が空気抵抗がないという判断だったのでしょう。
それと飛形も、今のようにV字になると減点で、両足がきれいにそろっているのが正しいとされていました。
当時の小学生達は、みんなこれをまねて、滑り台でジャンプごっこをして遊んだものですね。

さて、70m級の快挙で、一挙に90m級への期待が高まったのはいうまでもありませんが、こちらはまったくメダルに届かず、惨敗してしまいます。
天候が荒れてコンディションが悪かったのが原因ですが、精神力の勝負みたいな状況では、日本選手は弱かったのだといわれています。
このあたり、抱えている課題は今でも変わらないのでしょうか?

でも、考えてみるとジャンプってすごいですよね。
多くの日本人にとって、ジャンプという競技自体、札幌で初めて見たようなもので、(少なくともわたしはそうでした)
正直、子供心には、なんちゅうむちゃくちゃなことをやるんだと、感心したのでした。
それまでスキーというのは滑るもので、飛ぶものではなかったわけで・・・
・・・・・・・それがあんなに飛行距離があるんですよ。
初めて見た時の感想は「う、うそだろ」・・・・・・でした。
他にもボブスレーとか、バイアスロンとか、へぇ、冬のスポーツっていうのはいろいろあるんだと、教えてもらったオリンピックでもありました。

というわけで、この時の感動はその後長く尾を引いて、日の丸飛行隊として、日本はジャンプ競技で名選手を輩出するようになります。
八木、原田、船木・・・・彼らの存在も、この時快挙があってこそなのですね。

最近はぱっとしないんだけど、もう一度盛り返してほしいねぇ。
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/02/15(水) 08:10:34|
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ミュンヘンへの道(タイアップ2)

「ミュンヘンへの道」は47/'72年に4ヶ月ばかり放送されたスポーツアニメです。
この番組はいろんな意味でユニークなものでした。

当時、東洋の魔女として人気絶頂の女子バレーに対して、今ひとつ人気がなかったのが男子バレーです。
東京で金、メキシコで銀の女子に対して、男子は銅と銀。そんなに劣っているとは思えないんですが、どうも世間の取り上げ方には差があったようです。
そこで、ミュンヘンオリンピックで悲願の金メダルを取るため、まず国民を味方につけようと、起死回生、一発逆転の秘策として、繰り出したのがこのアニメなのです。

まず何がすごいといって、原作者です。
松平康隆・・・・・・・何を隠そう全日本男子の監督その人であります。
信じられますか?、「キャプテン翼」をジーコが描いてるようなもんですよ(違うかな?)

登場するのも、すべて実名の現役選手。
それもアニメキャラクターとしてだけでなく、技の解説や、練習のシーンなどでは、実写で本人が、ばんばん登場するという、出血大サービスです。
それぞれにキャラが立ってまして、横田 森田 大古・・・・懐かしいなぁ。猫田の天井サーブとかね。

それがミュンヘンオリンピックを目指す様を、リアルタイム且つドキュメンタリータッチで描くという、プロジェクトX的な内容なわけです。
番組の最後には、ミュンヘンまであと○○日というフリップまで出て、盛り上げること、盛り上げること・・・。

まさに究極のタイアップ番組なのでした。

このタイムリーな企画に日本中の少年少女は熱狂。見事にのせられて、男子バレーボールの人気は、うなぎ上りとなります。

そして最終回を迎えたわずか5日後、ミュンヘンオリンピックが開幕。(このタイミングも素晴らしいですね。)
実際に試合を勝ち上がり、見事本当の金メダルを獲得してしまうという、まるで現実の方がマンガにあわせたのではないかというくらいの、劇的エンディングを迎えたのでした。

まさに筋書き通りであります。(唯一読みと違ったのは、決勝の相手がソ連ではなくて、東ドイツだったことだといいます。)

どうもこの企画、松平監督の方から持ちかけたらしいのですが、この現日本バレーボール協会名誉会長のアイディアマンぶりは、目を見張るものがあります。

他にも国民を盛り上げるために、選手に様々のキャッチフレーズをつけたりしていたみたいです。「世界一の大砲」大古とか、「フジヤマ・ブロック」森田とか・・・
これなんか、いまだにその伝統をテレビ局が踏襲しているのですから、広告マンとしてもすごい才能ですね。

もっとも、少々やりすぎる傾向はあるようで、「ミュンヘンへの道」にしても、本人が実名でテレビに出て、アマチュア規定はどうなってるんだという指摘は当時からあったといいます。
まぁ、金メダルでみんな吹っ飛んじゃったんだろうけれど、後に決勝の審判にカラーテレビを送ったと公言しちゃうような人ですからね、かなりアクの強い人物なのでしょうね。

アニメで実在の人物や団体をリアルタイムで扱うというのは、今だったら怖くてちょっとできないと思います。
誰かが不祥事なんか起こしたら、一発で番組終了ですものね。
実際に現役の人物を同時進行で扱ったのは、他に「キックの鬼」('70/45年・キックボクサー沢村忠を扱ったもの、主題歌まで本人が歌っていた!!)があるくらいで、今後も、こんなに興奮するシチュエーションの作品は二度と出てこないでしょう。
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/02/14(火) 07:34:19|
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ハリスの旋風でタイアップ

タイアップってのはいつ頃からあるんでしょうね?
わたしがこの概念に気がついたのは41/'66年から翌年まで放送されていたアニメ「ハリスの旋風(かぜ)」によってでした。
もっともこの頃37生はまだ4、5歳です。わたしも自分で気がついたというより、兄貴から教わったというのが正しいかもしれません。

で、この番組のタイアップなんですが、そのものズバリ、スポンサーがハリス製菓というのですよ。
物語の主人公、石田国松の通っているのがハリス学園という名前で、そこに旋風を巻き起こす男ってことで「ハリスの旋風」なのです。
(余談ですが、国松の声は大山のぶ代、サブキャラクターのメガネ君の役は小原乃梨子がやっていました、・・・おぉドラえもんだ)

もちろんこの名前、偶然でもなんでもなくて、後にこのマンガがリメイクされた時には、スポンサーが変わったため、「国松様のお通りだい」とタイトルも変更になったくらいです。
(ちなみにハリス製菓は、現在はカネボウと合併してなくなってしまっています。)
しかし清々しいくらい分かりやすい話ですねぇ^^

しかしこれだけではなく、ちょっと調べると、当時からタイアップはたくさんあったようです。

たとえば東芝ははこの手のことに熱心な会社で、古くは三ツ木清隆(!!)主演の「光速エスパー」('67/42年)をキャラクターに採用して、日本中の電気屋の前にエスパー人形を設置したりしていました。
同社提供の「サザエさん」のなかでは、磯野家の家電が常に新製品なのは有名な話ですね。

また、グリコが提供するアニメはたいがい主題歌のあとに「グリコ、グリコ、グーリーコー」とコーラスが入っていましたし、「ロボタン」(41/'66年)というマンガでは、ずばり、「グーリコのロボタン」と歌っています。

そうそう松下提供の「ナショナルキッド」ってのもあったし、(宇津井健がタイツはいてました、37生の生まれる前の話。)藤沢製薬の「風のフジ丸」(39/'64年)・・・いろいろあるものです。

こう見ていくと、タイアップというのは、今以上に普通のことだったのかもしれません。
実は当時は、今と違って番組に単独でスポンサーがつくことが多く、このような大胆なスポンサーの介入が可能だったようです。

そんな中で、47/'72年、37生が小学4年の時に、戦後最大?のタイアップアニメーションが生まれます。
・・・・・(つづく)・・・・・

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  1. 2006/02/13(月) 07:43:35|
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校長先生のお話(遠足)

おはようございます。・・・・・声が小さい。
『おはようございます。』※1
はい、元気に挨拶できました。

※1 だいたい校長先生はこの前フリで話を始める


今日は待ちに待った遠足の日ですね。昨日の夜はよく眠れましたか?※2

※2 本当に昔の子供は遠足の前日は眠れなかった。朝は早くに目が覚めるので、当然遅刻するものはいない。


えーと皆さん。遠足というのは漢字で「遠くの足」※3と書いて遠足です。
ですから先生の子供の頃は文字通り遠くまで歩いて遠足に行ったものです。今みたいにバスなんかなかったんです。皆さんは恵まれているんですよ。※4

※3 このお話は全国的にポピュラー。わたしゃ義務教育中に3回聞きましたよ。
※4 そんなことを言われても困るのだが、考えてみれば37生の子供時分の校長先生は大正生まれだったりする。


さて、皆さんの気持ちが通じたのか、とてもいいお天気となりました。※5
今日は、おいしいお弁当を作ってもらったと思います。
そうそう、ちゃんと約束を守って「お菓子は150円」※6までにおさえてますか?

 
※5 クラスには必ず自分は「雨男」だと自慢する奴がいたが、たいがい晴れるものである。
※6 お笑いのネタにされて、ずいぶんメジャーになった話。世間的には300円で流布しているが、37生の時は150円くらいが相場だった。
ちなみにバナナはお菓子に入れるかという件は、断じてお菓子扱いである。37生小学校入学の頃はいまだ高価な「台湾バナナ」が主流であった・・・けれど、ミカンは違う。(断定)


これからバスで○○山※7へ向かいます。窓から顔や手を出してはだめですよ。足を出してもいけません。※8
それから、車に酔う人はバスの前の方へ。気分の悪い時は早めにいうんですよ。※9

※7 だいたい遠足の場所というのは決まっているものだ。東京近辺だとはっきりいって高尾山である。
※8 昔はこのくらいのことで笑いがとれた。思えばいい時代であった。
※9 まだ自家用車が普及していなかったためか、車に酔う子供がけっこういた。ビニール袋に紙袋を重ねた通称「ゲロ袋」をじっと口に当てているかわいそうな子・・・わたしだ。
ちなみにこの呼称は後に「エチケット袋」と言い換えられた


遠足というのは「家をでて家に帰るまでが遠足です」※10みなさんも最初から最後まで油断しないで、今日は怪我や事故が無いようにしてくださいね。

※10 これも話の締めとしては、きわめてポピュラーな話題


それでは出発!!
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/02/12(日) 13:20:36|
  2. 学校生活
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仮面ライダーカード

カードものという分野があって、時々、忘れた頃に男の子の間で大ヒットを繰り返します。
一番最近のは、ムシキングカードでしょう,その前がポケモンカード。一昔前はビックリマンシール(シールだけと貼る子はいなかったものね,やっぱりカードものに分類していいでしょう)・・・・。

で、37生世代のカードものは・・・
「仮面ライダーカード」ですね。

番組についてはまた書くこともあるかと思いますが、46/'71年4月の開始、小学3年になった頃です。
同時期に発売になった,カルビーの「仮面ライダースナック」のおまけについていたのがこのカードでした。

snack

これがライダースナックだ


当時20円(安!)、お菓子に入っているわけではなく、一枚ずつ袋に入っているカードを手渡しでもらえたように思います。
味はサッポロポテトだったという記憶があるのですが、調べてみるとサッポロポテトより、1年ほどライダースナックの方が早く発売されているのですねぇ。
甘くて、うまくないというという評判だったようで、するとわたしの食べたのは、後に発売された「V3スナック」の方だったのか・・・・。

実はわたしは「買い食いしたらしばくぞ」みたいな家庭に育ったので、このスナックは横から見ているだけで、めったに現物を手にすることはなかったのです。
当然カードの交換会なんかには参加できずに、指をくわえていたのですが、でまぁ、毎日おこづかいをもらえるような子達のあいだでは、さんざん流行ったよね、カード集め。

このカード、時々テレビ放送を先取りした内容がでてきたり、テレビでは語られないことが書いてあったり、同じ番号で内容が違っていたりと、マニア心をくすぐるには充分すぎる内容でした。
ラッキーカードがでるとカードホルダーがもらえるんだけど、わざわざ交換しないで、手元に残しておいたりとかね。
カード番号1番「蜘蛛男」みんなの垂涎の的でしたねぇ。
あと、「戦闘員カード」とか、集めていなかったわりに、マニアックなことをよく覚えているわたしです。

さらにはバッタもののカードというか、いろんなところから一山いくらみたいなカードも発売されていて、そういうのをこっそりホルダーに入れている奴が、周りから突っ込まれていましたっけ。
じつは「蜂女」という、どうも人気がないというか、へんに色っぽいというか、いろいろな意味で異色の怪人がいて、そのカードを持っていて,なんだか後ろめたそうにしている同級生をおぼえているのですが、あれはいわゆる偽カードだったからなのですね。
調べてみたら、カルビーから蜂女カードはでていないんだもん。
30年ぶりになぞが解けましたよ。

カードは546番まで、前述の同番異種のカードもありますから、実質600種以上でていたと推測されます。
最後の何枚かは「ショッカーの首領の正体」という、一番深いところまで踏み込んでいます。
おぉ、そうだったのか、これも今知ったよ。

当時カード欲しさに山のようにスナックを買い、お菓子は捨ててしまう、というのが社会問題化して、新聞にも取り上げられました。
実際わたしの周りでも山ほど捨てられたお菓子があり、貧しいわたしは、拾って食べたい欲求を必死に抑えていたのでありました。
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/02/11(土) 09:00:30|
  2. 流行り・アイテム編
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松田聖子の法則

松田聖子の法則って知ってますか?
といってもこれ、あまりメジャーな話ではないので、わたしの個人的な記憶だと思って読んでください。

聖子ちゃんの歌手デビューは55/'80年、37生は高校3年生。
山田邦子にぶりっ子といわれようが,嘘泣きしようが、間違いなくトップアイドルでした。

女の子はクラス中が、あの「聖子ちゃんカット」となり、
男子は、キャンディーズなき後(53/'78年解散)の、ひさびさに思い入れのできるアイドルの登場に、熱い血潮をたぎらしたのでした。

彼女のデビュー曲は 「裸足の季節」     ('80/ 4/1)
続いて       「青い珊瑚礁」     ('80/ 7/1)
          「風は秋色」      ('80/10/1)
          「チェリーブラッサム」 ('81/1/21)
と続きます。
あぁなつかしいですねぇ。♪えくぼの秘密あげたいの・・・・ですねぇ。

さらに       「夏の扉」       ('81/4/21)
          「白いパラソル」    ('81/7/21)
          「風立ちぬ」      ('81/10/7)
とぜーんぶヒットします。
(なんでもオリコン24曲連続一位の記録を持っとるんだそうです)

で、この法則の話を聞いたのは、わたし大学生になった時なのですが、最後の「風立ちぬ」がリリースされた頃ですね。
内容はこういうことです。

一 聖子のデビューから4曲目までは、「季節」「色」「風」「花」をそれぞれテーマにしたタイトルである。
二 5曲目からタイトルを見ると,再び「季節」「色」「風」を繰り返している。
三 すなわちこの法則に従うと、次の曲は「花」だ!・・・・・というもの。

おぉ、誰だか知らんが気づいた奴ぁ偉いね。
で、われわれ仲間内は、ドキドキしながら新曲のリリースを待ったのですね。

そして、'82/1/21ついに発売されたのが,あの名曲「赤いスイートピー」だったのでした。

・・・・・・・・・・当たってるじゃん!!!
春色の汽車に乗ぉってぇ・・・ちょっとした興奮状態でしたね。

もちろんその後も注目していました。
          「渚のバルコニー」   ('82/4/21)
          「小麦色のマーメイド」 ('82/7/21)
          「野ばらのエチュード」 ('82/10/21)
          「秘密の花園」     ('83/ 2/3)
と、4曲のうち2曲までは法則に従ったのですが、ここまででしたね。

まぁたわいのない話なんですが、ちょっと面白いでしょ?
今日は久々に聖子ちゃんのCDでも聞きましょうか。
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/02/10(金) 07:33:29|
  2. アイドルとか歌謡曲とか
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教科書(ゼッケン67)

教科書の名作中の名作といえば
「ゼッケン67」をはずすわけにはいかないでしょう。
光村図書,小学4年生の国語です。

東京オリンピック、陸上男子10000m競技をめぐる物語でした。

お話じたいはたわいない、
セイロン(今のスリランカ)のカルナナンダ選手が、3周遅れで完走する、それだけの内容です。

しかしまぁ、感動的な筆致で書かれていましたねぇ。

読んでいるうちに涙が出たものです。
以下完全に記憶だけですから、原文とは違うと思います。

最後の選手がゴールにはいり、まばらな拍手がおきた。
10000m競技は終わったとだれもが思った。

ところが、選手は止まらずに走り続けるではないか、なーんだ一周おくれていたのか、馬鹿にしたような声が上がった。

・・・・・・・・あれっなんかプロジェクトXみたいな文体なってきたな。
とにかくこのあと彼がひたむきに走るにつれて、客席から歓声が上がりはじめるのです。

3周目に入る時には、もう誰も馬鹿にする者はなく、ゴールは大観衆の総立ちの拍手で迎えられます。
翌日には新聞に大きく載ったり、帰国したカルナナンダ選手に、手作りのメダルがかけられた、というような話も、最後に付け加えられていたように思います。
(あくまで記憶だから間違っていたらごめんなさい)

元々が子供向けの文章ですから、例えばカルナナンダ選手の生い立ちとか、時代の背景とか、小難しいことはいっさいでてきません。
でも、酒飲んだ時なんかに、同世代の人間に聞くとたいてい覚えてますね、この話。

作者は特に著名な作家ではなく、当時の教科書の編集委員だったのだそうです。
いやぁ、一サラリーマンが、世代の共通の記憶となっている名文を書いたのですねぇ。
まさに一世一代の仕事だったんじゃないでしょうか?
(これも憶測です.もしかしたらその編集委員、今頃文豪になっていたりして・・・)

一方のカルナナンダ選手が、その後どうなったか定かではありません。
当時28歳だったそうですから、存命なら70歳ですね。最近は津波の被害などにもあった国ですが、お元気でおられるでしょうか。
・・・・・(つづく)・・・・・

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  1. 2006/02/09(木) 07:32:08|
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教科書(小さい白いにわとり)

小学校に入学して、算数も理科も勉強したわけですが、やはり根っから文系のわたしとしては、国語は好きな時間の一つでした。他は全部忘れても、国語の教科書だけは少し覚えておるわけです。

1年生の国語の教科書の1ページ目は「がっこう」
2ページ目は見開きで教室の風景が描かれていて「はい」
その次が、砂場遊びのシーンで、「ここがかわ」「ここがやま」「ここがたに」

3つ目の山川谷は細かいところで自信がないけれど、1ページ目と2ページ目は間違ってないと思います。
わたしが使ったのは光村図書の教科書だったようですから、他の会社のものを使った方にはまた別の思い出があるでしょう。

不思議なもので、教科書の内容は小さな頃のものほど覚えています。

1年生の教科書では「小さい白いにわとり」というのがありました。

このパンだれがやきますか?
ぶたはいやだといいました。
ねこはいやだといいました。
いぬはいやだといいました。
にわとりはひとりでぱんをやきました。

ていうの覚えてませんか?

ラストはパンが焼き上がり

ぶたはたべるといいました。
ねこはたべるといいました。
いぬはたべるといいました。

で終わるのですね。
このあとにわとりはなんと答えたでしょう、というのが授業のテーマなんだけれど、それはともかく、この文章、素晴らしいリズム感です。何せ今でも空でいえるのですから・・・。

それからやはり1年の教科書にあった「チックとタック」・・・あぁこれもなつかしいですねぇ
小人って何となく西洋のものだと思っていたのですが(イラストも安野光雅だし)
これはおじいさんのところにでてきた小人が、あろうことか天ぷらだのすしだのを食べるんですねぇ。最後はわさびを食べて苦しむという話。
無国籍だなぁ。

こちらもやはり、ストーリーはもとより、チックとタックという言葉の響きの良さが印象に残っているんだと思います。
教科書ではないですが、「おおきなかぶ」とか「ちびくろサンボ」とか、子供は、同じようなセンテンスの繰り返しで出来ている話が、大好きなのですねぇ。

してみるとちょっと前にはやった、声に出して読みたい日本語ってのも、あながち馬鹿にしたものでもないかもしれません。
と、今日の文章を書きながら、自分の中に意外な学習の成果が残っていることにちょっと驚くわたしでした。
・・・・・(つづく)・・・・・

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  1. 2006/02/08(水) 07:33:49|
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夏休みの高校野球 2

前回は、甲子園のインパクトNO1、PL学園の話を書きましたが、だからといってわたしが特別に野球が好きというわけではないのです。

けれど、37生の育った時代というのは、みんな年中行事のように高校野球を見ていました。
喫茶店の店頭に「高校野球放映中」なんて看板が出ていたりね。(そうそう、W杯の時に「カメルーン戦放映中」という張り紙を見たけど,なんかむちゃくちゃ懐かしかったですな)
マスコミの扱いも大きかったし、おのおのの思い入れも深かったように思います。
その後の世間を騒がすドラフト問題とか、金にまつわる噂なども無く、まだ高校野球がそのイメージを保っていた時代でした。

やがて、そんな国を挙げての高校野球熱もしだいに薄れていったのは、皆さんご存知の通りです。
わたしはといえば、年を重ねれば、それなりにいろいろなことに忙しく、自分が高校生になる頃には、ほとんど高校野球など見なくなっておりました。
そんな54/'79年、8月16日、高校二年の夏、その試合は行われたのです。

61回大会の3回戦、その日の第4試合は、春夏連覇をかけた和歌山の箕島高校と、石川県の強豪、星稜高校の試合でした。

わたしが何でこの試合を見ていたのかといえば、たまたまです。
たまたまではありましたが、これがまぁすごい試合だったのですね。

試合は箕島、石井と、星稜、堅田の両エースの投手戦になりました。
4回表裏にそれぞれヒットで1点ずつ上げると、あとはどちらも得点無く延長戦に入ります。
12回表、星稜高校は相手のエラーに乗じて得点。2-1として勝ち越し、裏の箕島の攻撃も簡単に2死となり、ここで試合は決まったと誰しも思ったのです。

ところがここで同点ホームランが出ちゃうんですね。
この辺から俄然、手に汗握る展開になってきます。

14回には箕島が1死3塁のさよならのチャンスを迎えますが、なんとこのランナーは隠し球でアウトになります。
わたしの人生の中で、2回くらいしか見たことのない隠し球が、ここで出ましたものねぇ、びっくりですよ。
もう、このあたりでは、テレビに釘付けです。

16回、星稜は、ヒットを重ねてついに三度目の勝ち越し、3-2です。
裏の箕島は、12回の再現のように簡単に2死となり、最後のバッターも1塁側に簡単なファールフライをあげてしまいます。
いよいよ終わりだと思ったところで、ファーストが転倒だぁ・・・・。

そしてアウトにならなかったそのバッターが、3球後に同点ホーマーを打ち、3-3。
もう球場は割れんばかりの大声援、お祭り騒ぎであります。

最初は星の字をデザインしたマークがかっこいいから,というしょーもない理由で星稜高校を応援していたわたしですが、この時点では、月並みですがもうどっちにも勝たせたいという、菩薩のような心境でありました。

結局18回表、無得点で星稜の勝ちはなくなり、このまま箕島も無得点なら、翌日再試合という場面で、箕島は四球とヒットで初めてこの試合をリード、つまりサヨナラ勝ちしたのです。

わたしには、ナイターとなった甲子園のマウンドで、決して淡々としているわけでもなく、しかし悲壮感を醸し出すこともなく、ひたむきに投げていた、両投手の様子が印象的でした。
思えば彼らは自分とほぼ同じ年であったわけですが、とてもそんなふうには見えなかった。
昔から甲子園に出てくる選手はなぜか「お兄さん」に思えるものなのです。

その後箕島はこの大会を制し、公立校で最初の春夏連覇を成し遂げています。
わたしは相変わらず、高校野球とは縁遠い日々に戻っていきますが、あの夏の日に、突然夢のような興奮を与えてくれた試合は、今でも忘れられないのです。
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/02/07(火) 07:52:28|
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夏休みの高校野球

子供の頃の夏休み、高校野球は今よりはるかに盛り上がっておりました。
特に用事のないときなんか、第一試合から第四試合までずっと見ていたこともありましたっけ。

当時私の住んでいた県は、伝統的に高校野球が弱く(今でも弱いぞorz)、だいたい一回戦負けでしたから、二回戦からは適当に目についた学校をごひいきにしたものです。
よく応援したのは高知高校。
きっかけは覚えていないのですが、あの頃は強くてよく上位に進出していましたっけ。いまだ高知県に足を踏み入れたことのないわたしですが、このとき以来大変親近感を持っております。

さて、そんな小学校の夏休みですが、ある年(正確には45/'70年)わたしはテレビで画期的な応援を目にします。
PL学園の人文字ですね。
ここの学校が甲子園に初お目見えしたのは37/'62年、私たちの生まれた年なんですが、その時はまだ単にPの字だったそうです。45年は2度目の夏の甲子園でした。
(春には40年代前半にぽつぽつ出ていたようですが、37生の記憶としてはこれが最初)

高校野球には近江兄弟社高校とか聖心ウルスラ、あるいは新潟明訓、日本航空なんて、時々とてつもない名前の学校が出てくるのですが、PLの衝撃にはかないません。
だってアルファベットなんですよ、しかもそれが、アルプススタンドに浮かび上がってるんですよ。
小学生のわたしは、あまりのインパクトに、目が釘付けでしたね。
しかもこの人文字、甲子園に出てくる度にグレードアップしていていくのです。
最初は帽子の色でPLの字を浮かび上がらせているだけだったのが、そのうちカラーボードを使って「打て」とか「ホームラン」なんて文字が出たり、白鳥が泳いだり、ものすごいエンターテーメントでした。

何事に対しても,時代ごとのレベルというものがあると思うわけですが、PLの応援というのは、はるかにそれを超えていました。
素人としてはもちろん、あれは当時のプロ以上(そんなものがあればの話だけど)だったと,そう思います。

他にも、バッターボックスに立つたびにお守りを触る仕草とか、試合後のインタビューで,監督が「教祖様の教え云々」のコメントをしたりとか、異質な香りを漂わせつつ、すっかりこの学校は全国区になっていくのです。

しかし昔も今もPLは強かった、卒業生でもないのにPLの校歌が歌える日本人は多いはずですよね。PL学園とーこしえーにー♪
・・・・・(つづく)・・・・・

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  1. 2006/02/06(月) 07:37:59|
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カラーテレビが来た日

のっけからなんですが、昔の電化製品には夢がありました。
だいたい名前からして違ってましたよ、
毎週プロレスのマットの掃除をしていた掃除機の「風神」
洗濯機なら、水流が見事な「うず潮」とか、音が静かな「静御前」
テレビは「魁」「薔薇」「クイントリックス」,かっこいいじゃないですか。
冷蔵庫で「霜用心」ってのもあったらしいぞ。

古くは三種の神器といって白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫が、庶民のあこがれであったわけで、お父さんたちはこれを手に入れるべく、必至に働いたわけですねぇ。
しかし、37生が物心つく頃には、それらはかなり一般に行き渡り、「新・三種の神器」カラーテレビ、車、クーラーの時代へと移っていました。
車は家電ではありませんし、どこに行ってもクーラーがある時代は、もう少しあとになりますので、37生にとって最初にときめいた家電は、やはりカラーテレビじゃないでしょうか?

37生なら、家に初めてカラーテレビがやってきた日を覚えているはずです。
そしてそれ以前の、どうも世の中にはカラーテレビというものがあるはずなのに、「うちのテレビにゃ色がない」という状況も記憶しているのでは・・・・。

だいたい昔のカラー番組は、ご丁寧に画面の隅に「カラー」と表示されていたものです。
それもアニメなどは番組ごとに趣向を凝らしてあって,巨人の星はボールの形、黄金バットはコウモリの形の上に、それぞれカラーと誇らしげに書かれておりました。
まぁ、子供心にはどうもテレビがカラーであるということを想像できずに、ただ何となく、ふーんこれはカラー番組なんだと思っていただけですが、大人にとっては、きっとあれを見るたび「うちのテレビにゃ・・・」と思ったことでしょうね。

さて、親父がそのことに発奮したかどうか定かではありませんが、わたしの家にも人様のところよりやや遅れて、カラーテレビはやってきました。(まぁ一番大きな理由は、長年使った白黒テレビのコンセントから火花が噴いたいたことでしょうね)

まず、今と違って、カラー調節ボタンがどーんと正面についてましたね。これで遊ぶととんでもない色になるのですよ、ほとんど意味ないけれど・・・。

それと、チャンネルはまだ回転式。ガチャガチャやってると抜けてしまったり、接触不良を起こしたりするのは、白黒テレビで経験済みでしたから、「回転は一方向だっ」と、母親が宣言しましたっけ。
で、右回しなのか、左回しなのか,家族でけんけんがくがくしているうちに、妹がガチャガチャやってしまって、宣言は3分で無効になってしまったという、マンガみたいな我が家です。

ああそうだ、昔のテレビは、つけてからまず音が聞こえ、やがて画面が蜃気楼のように浮かび上がるという、真空管ばりばりの,スロースターターだったのですが、たしかカラーが一般化する頃には、日立の「ポンパ」という画期的な機種が出ておりましたっけ。
ポンとつけるパッとつく(だからポンパなのね),ノンストレスの機種です。
これけっこう画期的なことだったんですよ、それまでは寒い朝なんか、なんだか音が出るまでやたら時間がかかったような・・・・すごい話だね。
うちの機種は何だったか覚えてませんが、パッとつくには、次の買い替えまで待たなければならなかったような気がいたします。^^;

ところでこの前、ここに白黒アニメについて書いたのですが、どうも自分が白黒だと思っていたアニメが調べてみるとカラーだったという、とほほなケースが頻出しました。
よく考えたら,放送はカラーだったけど、家じゃ白黒で見ていたということですね・・・・。
・・・・・(つづく)・・・・・

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  1. 2006/02/05(日) 09:03:42|
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巨人の星(橘ルミと日高美奈)

このタイトルでピンときた人は、正しく昭和を生きてこられた方ですね^^ (断定)

アメリカの野球ロボットこと、アームストロング・オズマ(どう考えてもオズマ・アームストロングが正しそうなんだが・・・・)から、「お前は野球人形だ」と告げられショックを受けた飛雄馬が,俺は人間だぃ。恋愛だって出来るもん。と付合いだしたのが,人気絶頂の女性ディオ「オーロラ三人娘」の橘ルミなのですね。

で、このオーロラ娘の持ち歌が「クールな恋」。検索して35年目にして初めてタイトルを知りました。
子供の耳には「アイラビュ、アイラビュ、ホレバボン」と聞こえましたが、「I love you, I love you, forever more」だったのですね、たぶん。

番組では
I love you, I love you, forever more(ラ・ラ・ラ)
I love you, I love you, forever more(ラ・ラ・ラ)
愛するってこわい、別れがこわい・・・(↑このラ・ラ・ラがエキセントリックなのよ)

と、ここまでしか流れなくて、どうせ挿入歌だから、フルコーラス作らなかったのかしらん、なんて思っておりましたら、ところがどっこい。
これ、ザ・ゴールデン・カップスのオリジナル曲なんです。

いやぁホント調べるといろんなことが分かるなぁ。

そうそう、橘ルミですね。
この子はあまり性格が良くなかったらしくて、番組的には5週くらいで別れています。
元々人形じゃないことを証明したくて付合ったわけで(ちなみに飛雄馬という名前はヒューマンからきてます)所詮遊びだったんだな、飛雄馬よ。

で、直後に付合ったのが日高美奈です。

宮崎の山奥の診療所の看護婦ですね。
宮崎キャンプに患者の女の子を連れてきていた彼女は、捕球を誤ってボールを女の子に当ててしまった飛雄馬を平手打ちにします。
飛雄馬はその後ふたりを診療所まで送っていき、その厳しい環境に驚き、けなげに働く美奈に恋をするという、設定です。

しかしこの診療所、タクシーで数時間、そこから徒歩でさらに数時間というとてつもない山奥です。
先生は巨人ファンのくせに、山暮らしのうちに選手の顔がぜんぜん分からなくなって,飛雄馬のことも知らなかったくらいなので、どうやら電気もきていなさそうでした。
これいったいどこなんでしょうかね?

その後、飛雄馬が都城に移っても(色ボケで2軍に落とされたんです)、ふたりは宮崎市内や、日南海岸でデートを重ねたようですから、やはり宮崎市からさほど遠くないところのはずなんだけれど、宮崎も奥が深いようです。

こちらの美奈さんも、5週くらいで黒色肉腫という不治の病で死んでしまいます。(あらあら),調べてみたら皮膚がんなんですって、こわいですねぇ。
飛雄馬も今回は本気であったらしく、その後長いスランプに入ってしまうのでありました。

飛雄馬が美奈さんに告白した
「俺はあなたに九回二死満塁ツースリーのような迫力を感じる」
という名ゼリフ、忘れられませんね。
女の人はこういうことを言われると喜ぶのかと、勘違いしたかどうかは別にして、野球にそういうシチュエーションがあるのだと,初めて知った37生でした。
・・・・・(つづく)・・・・・

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  1. 2006/02/04(土) 08:37:56|
  2. テレビ・ラジオ
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巨人の星

「巨人の星」こそはわれわれ37生の、共通の記憶NO1にふさわしいものでしょう。
同年代の人間で、大リーグボール1号と2号の違いを説明できない人間なんて存在しませんし、思い込んだら♪の主題歌を歌えない奴もいないのです。(断定)

番組は37生が幼稚園児だった、43/'68年から、小学3年生の46/'71年まで、足掛け4年、182話も続いた超ロングランでした。
その後、繰り返し再放送されたことで、かなり幅広い世代に認知され、日本人の間に様々な伝説めいた共通認識が生じたことも、皆さんご存知の通りです。

例えばあまりに有名な、花形満の「中学生のくせにスポーツカー乗り回していたぞ事件」とか、
星一徹は「実は本編ではちゃぶ台を一回しかひっくり返してないぞ」のトリビアなんかです。

どうもこの番組、舞台が現実に存在する日本プロ野球である上に、魔球の説明を論理的にしようとしたり、なまじリアルな設定を指向したために、逆に突っ込みどころ満載になってしまったようです。

そこでかくいうこのわたしが、小学校の頃から、なんかへんだなともやもやしていた、ふたつの謎を取り上げてみましょう。

その1 球質の謎
そもそも、飛雄馬が次々に魔球開発の道にはまっていったのはなぜでしょうか? それはある理由で、彼の本来の投球では勝負にならなくなったからです。
そう、飛雄馬がその華奢な体格ゆえに抱えていた致命的な欠点。それが「球質の軽さ」なのです。

で、この球質ですが、要するに球に体重が乗らないので、当てさえすれば長打になるというのですね。
左門豊作がいち早くこのことに気づき、チームメイトに教えることで、飛雄馬は大洋打線にめった打ちにあいます。ちょっと教えただけで次の試合では散々に打たれてしまうのですから、これはもう間違いなく致命的であったわけです。

しかしですね、中学で物理の基礎(理科第一分野とかいうんだよね)を習うとですよ、質量と速度が一定なら生じる力も一定なわけですよ。
すなわち野球ボールの質量が決まっている以上、超豪速球を投げていた飛雄馬の球は、他の投手より力があったはずで、それは飛雄馬の体重には無関係なのでした。
それでも当てただけで長打になるということは、それはバントをしたら外野まで飛んでしまったということで、とんでもない超豪速球であったということになるのですが、そもそもそんな球をとれるキャッチャーがいないでしょうね。

結論から言えば飛雄馬は何も魔球など開発せずに、ちょっと遅いボールを投げればそれで充分だったと・・・・・。
彼は出だしから間違ってしまっていたのでした。

その2 魔送球の謎
さて、その勘違い男の飛雄馬を育てた、父の星一徹ですが、わたしは彼にも疑問を抱いています。
一徹は肩を壊して野球界を去り、息子である飛雄馬に、自分の果たせなかった、巨人の星をつかむという夢を託すわけですが、問題はそもそもその肩の故障についてです。

三塁手だった彼は、ランナーを刺そうと一塁に送球すると、ボールが塁に届かないんですね。アニメでは一塁手の前で球がバウンドしてしまい、一徹は絶望してしまいます。
そこで悩んだ一徹は「魔送球」という超変化球を編み出したのです。

これは返球がランナーにまっすぐ向かっていき,ぶつかると思って選手がひるむと、ものすごい角度で一塁手の方にボールが曲がるという、理屈も何もない奇跡の変化球なのですが、これがちゃんとファーストに届くのです。
送球する場所にもよりますが、一塁より走者のほうが遠い場合も多々あるわけです。そんなカーブをかけて、なおかつきちんと届くのならば,最初から一塁に投げなさいと、これは物理学以前の問題ですね。

親子共々悩まなくていい宿命に悩んで、どつぼにはまっていく、星親子恐るべし。
というか、川上哲治も、一徹に球界を去れなんて追いつめないで、真っ直ぐ投げろよと,教えてやればいいのに・・・・。

こうしてみると、すべてはこの親子の勘違いに端を発しているということが分かっていただけると思います。
ですからこの後の大リーグボール1~3号がいくら物理法則に反していても、荒唐無稽であっても、それはもうおまけのようなものなのですね。

いやなかなか奥の深い話です。
・・・・・(つづく)・・・・・

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  1. 2006/02/03(金) 07:14:27|
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白黒アニメのヒーローたち

初めての連続テレビアニメ番組が「鉄腕アトム」であることはあまりに有名ですが、この放送が始まったのが38/'63年の1月1日。当然白黒作品でした。

学齢でいうとまだ生まれていない37生もいますが、とりあえず私たちはテレビアニメの歴史とともに生きてきたといってもいいでしょう。
じつは、37生は日本で放送されたすべてのテレビアニメーションを見る機会を得た世代なのです。

とはいえ、37生にとって白黒アニメは、鮮明に覚えているにはちょっと幼すぎる時期の制作で、どちらかといえば再放送などでフォローした記憶が多いでしょう。
細かいことは覚えてないけど、確かにそういう作品は見ていたぞと、そんなところでしょうか。

その後、カラー作品が登場するのが40/'65年の「ジャングル大帝」で、数年をへて、37生が小学校に入学する前には、ほとんどのアニメがカラー化されていたといいます。
したがって白黒のアニメーションというのは、アニメの黎明期と、白黒番組の終焉期が重なって、作品数自体があまりないのです。

さて、この頃の作品の多くは、SFものであり、男の子向けでした。
SFアニメですからキーワードは「未来」と「宇宙」ですね。

未来といえば、当時は21世紀もずいぶんな未来でした。
アトムが生まれたのが2003年(アニメでは2030年位らしい)。「遊星仮面」が2001年「レインボー戦隊ロビン」も詳細は不明ながら、21世紀の物語なのですねぇ。

でも、いざ21世紀になっちゃうと夢も希望もないなぁ・・・・。

そうそう、あと思いっきり未来なのは「スーパージェッター」。彼は30世紀のタイムパトロールです。
さすがにアトムも時間を止めたりは出来なかったので(30秒だけど、ジェッターは出来るのだ!)、そういう意味で、一千年の未来はダテではありませんね。

いっぽうの宇宙といえば「遊星少年パピィ」「宇宙少年ソラン」あと「宇宙パトロールホッパ」とか「宇宙エース」などなど、あんまりいろいろあるんで頭の中でキャラクターがごっちゃになってますね。
でもホッパパトロールなんかは今見るとカッパなんですよ、カッパ。・・・・けっこう無茶してます。

日本のアニメの優秀さでしょうが、すでにこの時期に、星間戦争とか地球侵略、サイボーグ改造手術、巨大ロボから環境破壊攻撃まで・・・その後のアニメに出てくる設定はみんな出そろっていたように思います。
子供相手なのだけれど、子供だましで終わらないみたいなのは、日本の伝統でしょうか?
たとえば「遊星仮面」は、地球と対立する星の間に生まれたハーフで、母親は異星人として相手の星にとらわれているという、なかなか大人な設定だったりしましたし、「ビッグX」はナチのもとで開発された人間強化の話なんですねぇ(そいつは知らなかった)。

SFもの以外では「狼少年ケン」とか「風のフジ丸」、「冒険ガボテン島」(これも白黒だったよなぁ?)、あとおそらく最初のスポーツものの「アニマルワン」、戦争ものの「0戦はやと」なんていうものもありましたねぇ。
ほほぅ、こうして見ると、数は少ないながらなかなかバラエティーにとんだラインナップなんだ。

不思議なもので、ストーリー自体はよく覚えていなくても、主題歌や決め言葉の類いは今でもすらすら出てきますね。
「僕はジェッター、一千年の未来からやってきた正義の味方だ」
「ひと呼んで流星仮面」
「ホッホッホッパパトロール」
「ソラン、ソラン、ソラン、遠い宇宙から」
「いくぞ今に見てろ、バンバ、ババババンと日の丸揚げるんだぞ」
etc,etc・・・・・・まだまだいけそうです。

37生にとっては、本気でマンガ漬けになる前の、イントロのような白黒アニメの数々、改めて見直してみたいなぁ。
・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/02/02(木) 07:25:47|
  2. テレビ・ラジオ
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BCL 2

懐かしの趣味BCLの続きです。
当時の日本語放送を行っていた国は十数カ国ありましたが、その中で印象の強いものを思い出すまま書いてみましょう。(局名は当時)

「ラジオ・オーストラリア」
当時BCLを始めると、まずここから聞き始めるのがポピュラーでした。笑いカワセミの鳴き声で始まるオープニングが印象的でしたね。内容も最もくだけた感じで、親しみやすかった局でした。
わたしは半年間ここに受信報告書を送り続けて、リスナーズクラブの会員バッチを手に入れたものです。(そこで燃え尽きたのだけれど)

「平壌朝鮮中央放送局」
「モスクワ放送」「北京放送」とならんで、社会主義御三家。どこも中波並によく聞こえました。(もっとも、どうも内容が硬く、小学生には人気がありませんでしたが)
朝鮮中央放送は、当時も今と同様、大仰なイントネーションでやっていまして、大変印象に深いものでした。
固有名詞が全部朝鮮語なので「南のカイライパクチョンヒに対し偉大なシュリョウキムイルソン同志は・・・・」という調子で、まったく???でした。
それでいて、歌の時間なんていうのがありまして、「音符を書き取ってください。ド、ソ、ミ、ミ・・・・・」なんて大真面目に流すので、もっぱらわたしには、マニアックな物まねの対象でしたね。

「アンデスの声」
エクアドルという小国からの放送で、子供心に異色な存在でした。地球の裏側という響きにぐっときたものです。しかしここもよく聞こえたなぁ。
南米からはもう一つ「RAE」というアルゼンチンの放送があったのですが、こちらはジャミング(妨害電波)の影響でまったく聞こえず、幻の放送でした。
どなたか聞いた方いらっしゃいますか?

「ベトナムの声」
独特の訛りのあるアナウンスが印象的、「こちらはぺとなむのこえほうそうきょくです」と聞こえましたね。
当時はベトナム戦争中で、今だったらもっと興味深く聞けたのでしょうが・・・。
わたしはベトナム戦争が終わった直後、手書きで国名の部分を書き換えたベリカード(といっても、ここのは文字だけの書類みたいなものでしたが)をもっていました。

「自由中国の声」
ここでいう中国は中華民国の方。
当時は韓国と北朝鮮、中国と台湾がお互いに放送で非難合戦を繰り広げていました。
小学生の身でそんなことをちょっと感じられたのが、ここの放送でした。
大陸に対して立場の弱い台湾の方が、より過激だったのですね。「大陸の若者よ、君たちは赤旗の下に踊らされているのだ」なんてよく流してました。

「ドイッチェヴェレ」
西ドイツ、ケルンからの放送。考えてみれば、政治的に対立する相手のある国はたいがい放送をしてましたね。でも東ドイツの局はなかった。
内容はきわめて穏当だったと思います。局名はドイツの波って意味なのでした。

「BBC」
ビック・ベンの鐘の音で始まるのですが、なんでもそれはリアルタイムの音なので、時々街の音、例えば犬の鳴き声なんかが聞こえるのだと、雑誌なんかには書いてありました。
でもあの雑音の中、本当にそんなもの聞こえたのかしらん?

他に「バチカン放送」「ラジオ韓国」・・・あとなにがあったかなぁ
今ではほとんどの局が局名を変えたり、日本語放送を中止したりしています。
調べたら当時から局名もそのままで放送しているのは「ベトナムの声」だけなのですね、ヨーロッパからの放送は旧「モスクワ放送」、今の「ロシアの声」だけになってます。

この記事を読んで、知ってる!と思った37生は、押し入れから短波ラジオを引っぱり出してみましょう。
・・・・・(BCL終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/02/01(水) 07:38:56|
  2. 流行り・趣味編
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