昭和37年ブログ

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石立鉄男はいつアフロになったのか

ちょっと時間が経ちましたが、37生の脳裏に強烈な印象を残した俳優、石立鉄男さんが亡くなりました。
まだまだ若い印象があったのですが、64歳・・・いや、やっぱり若いですよね。
そこで当ブログ流の追悼記事を・・・

石立鉄男といえば「チー坊」
条件反射で出てくるくらい、「パパと呼ばないで」(47/'72年)での演技が有名ですが、
彼は70年代を通して(もちろんそれ以降も)、数々の作品で強烈なインパクトを残した名優でした。

石立が37生の記憶の中に登場するのは、
「パパと呼ばないで」の前、彼の事実上の出世作であった、45/'70年の放送の「おくさまは18歳」ですね。
岡崎友紀が大ブレイクして、国民的アイドルになった作品です。

この作品で石立は、自分の高校の生徒と秘密で結婚している教師という、真面目に考えたらドロドロの役で出てきますが、
ドラマの内容はまさにラブコメ。
彼はハンサムで、女生徒達にモテモテという、あり得ない設定なのですね。(でも演技は思いっきり三枚目ですが)
で、なんと同僚の全然もてない海沼先生の役が、若き日の寺尾聰だったという、驚くべきキャスティングでした。

しかしこれは面白かった。脇にうつみ宮土理や、冨士眞奈美など、なかなかのメンバーを取り揃えて、現在に至るまで、シチュエーションコメディーの傑作として語り継がれています。

しかしこの時の主役はあくまで岡崎友紀であって、石立が主役を張るようになるには、まだ少し間があります。
で、その後「おくさま」のTBSから、日テレに移ってとったのが、「石立ドラマ」といわれる一連の作品ですね。

「おひかえあそばせ」 (46/'71年)
「気になる嫁さん」 (46/'71年)
「パパと呼ばないで」 (47/'72年)
「雑居時代」 (48/'73年)
「水もれ甲介」 (49/'74年)
「おふくろさん」 (50/'75年)
「気まぐれ天使」 (51/'76年)
「気まぐれ本格派」 (52/'77年)


このうち「雑居時代」は、「おひかえあそばせ」のリメークで、ともに女ばかりの姉妹の中に、石立が同居することになる、というコメディ。
なので記憶が混同している37生も多いかと思います。

ドラマとしては「雑居時代」の方がヒットしたんじゃないかな?
ちなみに杉田かおるが前作「パパと呼ばないで」から引き続き出演していて、石立と初対面のシーンでは、
石立が「君、お米屋さんの二階に住んでなかった?」という、楽屋落ちみたいな台詞を発していました。

「気になる嫁さん」では亡くなってしまった弟の婚約者、榊原るみに心を寄せる兄の役。
この手の同居もの、多いんですねぇ。

榊原るみ、かわいかったです。
石立鉄男には、共演者の魅力を引き出す力があったようで、前述の岡崎友紀、杉田かおる。榊原るみ、そして無名ですが、「気まぐれ天使」で共演した坪田直子(樹木希林の孫、渚役)など、魅力的な女優との競演が多いですね。
追悼記事などをみてみると、演技には厳しい方だったようですね。


ところで石立鉄男といえば、アフロヘアです。

しかし、今回いろいろ調べてみましたら、彼は決して最初からアフロだったわけではありません。
「おくさまは18歳」の時は当初ただの長髪でしたし、その後もだんだんカールがかかっていますが、アフロというにはちょっと弱い。

そこで時代をおって彼の髪型を検証してみました。




おくさまは18歳
小さいけどわかりますか?ただの長髪ですね。ちなみにその右が寺尾聰





気になる嫁さん
だいぶカールがかかってきました





パパと呼ばないで
かなりアフロっぽくなります





気まぐれ天使
ここでアフロになる
ちなみにマドンナは酒井和歌子





少女に何が起こったか
おなじみの顔になる・・・


画像が小さいのですが、わかっていただけたでしょうか?
最後のはずいぶん後の作品ですが、この石立ドラマを通して、彼はどんどんむさ苦しい三枚目のキャラクターを確立していったようです。
で。むさ苦しくなるとともにアフロになったと、まぁそういう結論ですね。


あまりにむさ苦しく、濃いキャラクターなので、やがてだんだん時代とのずれを生じ
その後は脇に回ることが多かった石立鉄男。

それでも、「少女に何が起こったのか」「スチュワーデス物語」そして「わかめラーメン」のCMなど、時々出てきては、いい味出してました。
晩年は麻雀三昧の破天荒な人生だったようです。

強烈なキャラクターと存在感。37生はあなたを忘れません。
合掌

・・・・・(終わり)・・・・・
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  1. 2007/06/18(月) 09:12:09|
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超能力少年の登場

K田少年、逮捕されちゃいましたねぇ。
といってピンと来るあなた、40過ぎてますね?^^
ていうか、彼も37生らしいですな、まっ人生もいろいろだわなぁ。

というわけで、知らない人のためにちょっと復習を
49/'74年、37生小学校最後の年、世に言う「超能力ブーム」がおきたのです。
かのユリ・ゲラーが来日して、特番に出演、一挙に火がつきます。
この日の木曜スペシャル、私も、家族そろって見てましたねぇ。司会は大橋巨泉だったっけな。
確かこの時は、スプーン曲げ(最後には折っちゃったと思う)と、缶詰の中に入れた鍵を見つける透視をやったように記憶しています。

でね、スプーン一本曲げるのに、むちゃくちゃ時間かけるんですよ。
記憶が正しければ、2時間のうちに1本しか曲げなかったですからねぇ。
まぁ当時はそれでも大センセーションだったわけです。

で、この時、実は日本側でも超能力者を発見しましたよ、と日テレがつれて来たのが、小学5年生だったS口少年ですね。
あの後ろ向きにしゃがんで、スプーンを放り投げる子、おぼえてますか?
なんでも両者を共演させようという話もあったらしいのですが、S口少年があんまりびゅんびゅん曲げるんで、ユリ・ゲラーの方が気分を害してその話はポシャったということです。
(まぁこれは当時隠れて読んだ、オヤジの週刊誌に書いてあったことなので、真偽のほどは明らかではありません)

さて、さらにこの放送を見て、僕にだって出来るよと、スプーンを曲げてみせたもう一人の小学生が、K田少年なんですねぇ。(いや、説明が長いね)
彼もほどなくテレビ出演を果たし、一躍時の人となるんです。

とにかく37生なら、当時一度はスプーン曲げに挑戦したことがあるわけですが(断定)
つい力んで、体力で曲げてしまった経験者、たくさんいらっしゃることと思います。
あと件の特番の最後、ユリ・ゲラーが、スタジオからお茶の間に向けて念を送った際、テレビの前で時計を握りしめて、振り回したあげく、針が30秒くらい動いた人も・・・いっぱいいるよねぇ。

実際冷静になれば、超能力などないということは、すぐにわかることなんですが、
「昨日うちの時計が動いた」とか「僕のいとこがスプーンを曲げた」なんて話は、あの頃の教室には、あふれかえっておりました。
まぁ、その波に乗って人生狂わしちゃったんですね、K田少年。
(ちなみにS口少年もいろいろあってやっぱり捕まったりしてます。どっちの時もスポーツ新聞には、超能力で鉄格子を曲げる云々のネタが出てましたけど、ちょっと悲しいなぁ)

ユリ・ゲラーだけは、何度インチキを暴かれようと不死鳥のようによみがえり、(最近もCMに出てましたけど)今はイギリスで、けっこういい暮らしをしているようです。



なんとCDなんか出してるらしいですよ・・・・・。

たった一度のテレビ放送で、日本中がここまで熱狂してしまう・・・
やっぱり時代というものでしょうか。

・・・・・(おわり)・・・・・

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  1. 2006/11/10(金) 11:27:18|
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いわゆるひとつの長嶋引退

長嶋の引退試合はは49/'74年10月14日。37生の小学6年生の時です。

対中日のダブルヘッダー、私はテレビで第一試合から観ていた記憶があるのですが、この日は月曜日です。
ということは学校に行っていたはずなのだけれど、なぜか第一試合が終わったあとに,スタンドを歩いて回りながら、外野の客に挨拶している長嶋を覚えています。
うーん急いで帰ってくれば間に合ったのかな?
いや、そもそも私の記憶じゃ、あれは試合中の出来事だったんだけれど、いくらなんでもそれはないよなぁ。

とにかく、アンチ巨人だった我が家でも、この日の試合はしっかり観ていたのです。

そして第二試合終了後、マウンド上で、あのあまりに有名な挨拶があったのですね。
ちょっと検証してみましょう。




昭和33年、栄光の巨人軍に入団以来、今日まで17年間、巨人並びに長嶋茂雄のために絶大なるご支援をいただきまして誠にありがとうございました。

いきなり巨人と、長嶋は同格であります。さすがミスター・ジャイアンツ!


皆さまから頂戴いたしましたご支援、熱烈なる応援をいただきまして、今日まで私なりの野球生活を続けて参りました。

ここでちょっと文章が変になりますが、まぁしかたないですね


今ここに自らの体力の限界を知るにいたり、引退を決意いたしました。

流行ったねぇ、このフレーズ。今でも体力の限界を理由にやめるスポーツ選手は数多いですが、これが原点ですよね。ちなみにここで客席から、大声で「まだやれるぞ」と叫んだ客がいるのを、なぜだかよく覚えています。


振り返りますれば、17年間にわたる現役生活、いろいろなことがございました。その試合をひとつひとつ思い起こします時に、好調時は、皆様の激しい大きな拍手をこの背番号3をさらに闘志をかきたててくれ、また不調の時、皆様の温かいご声援の数々の一つに支えられまして、今日まで支えられてきました。

うーんまた「てにをは」とか変だよぉ


不運にも、我が巨人軍はV10を目ざし監督以下選手一丸となり、死力を尽くして最後の最後までベストを尽くし戦いましたが、力ここに及ばず、10連覇の夢は破れ去りました。

この二日前に巨人は優勝を逃し、長嶋は引退表明をしたのですねぇ


私は今日引退をいたしますが、我が巨人軍は永久に不滅です。

なぜ永遠でなく永久だったのか、いろいろ議論の別れるところですが、これも名文句です。そしてやっぱり長嶋と巨人は等価値ですね。すばらしい。


今後、微力ではありますが、巨人軍の新しい歴史の発展のために、栄光ある巨人が明日の勝利のために、今日まで皆さまがたからいただいたご支援、ご声援を糧としまして、さらに前進して行く覚悟でございます。長い間、皆さん、本当にありがとうございました。

ほとんどの日本人は、前段の「永久に不滅」で話が終わったと信じていますが、実は付け足しで、今度は巨人の監督やるぜいと、宣言してたりするのです。


じっくり検証したい方はこちら





37生にとって、長嶋茂雄は巨人の名選手としての記憶もあるのですが、どちらかといえば、それは晩年のものです。

もちろん小さいときから野球に目覚めていた一部にとっては、彼はヒーローそのものであったでしょうが、多くの37生には監督としてのイメージの方が強いのではないでしょうか。

それまでの長嶋は、37生のなかでは、実在の選手というより、むしろ巨人の星に出てくる有名選手、そんな気がします。(うちだけかなぁ、何しろアンチだったから・・)

実は当時ヒーローインタビューのようなものはまだ一般的ではなくて、長嶋の肉声というのを、みんなほとんど聞いたことがなかったんですね。(それにあの頃の巨人の選手って、オロナミンCのコマーシャルにしか出てなかったし)
で、長嶋茂雄が実はあんなに大ボケで面白いおじさんだということは、この頃は誰も知らず、事実は、その後ゆっくりと時間をかけて、世間に知れ渡るわけです。(個人的には、引退直後にスーツかなんかのコマーシャルで、彼があの長嶋節を聞かせたあたりからかな・・・・、え?え?って感じでしたね)

長嶋引退の日は、新たな長嶋伝説の始まりの日でもあったのでした。
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/05/27(土) 14:57:15|
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ノストラダムスの日

私たちの世代はみんな知ってることですが、1999年の7月には、空から怒れる大王が降ってくるはずでしたね。
小学生5年の37生達は、自分が40まで生きられないという、恐怖の予言におののきつつも、37才の自分がまったくイメージできずにいたものです。
だいたい予言、占いの類いで、正確に月日まで明示するパターンは少ないので、この「ノストラダムスの大予言」、なかなかインパクトがありました。
明日あさってではないけれど、生きているうちに結果が見られるというのが、ヒットの要因じゃないですかね。

さて事の元凶、五島勉の「ノストラダムスの大予言」が出版されたのが48/'73年、累計250万部の大ベストセラーでありました。
あまりに売れたので、その後もこの五島先生、続編を何冊も出して、その度にいろんな予言の解釈(巨大エルニーニョだの、中国軍のヨーロッパ侵攻だの)をなされたらしいのですが、当然ひとつもあたっとりません。

さて、当時はいわゆる柳の下のドジョウを狙って、他の著者による似たような本も多く出されておりましたね。
わたしが覚えているだけでも、「惑星直列」だの「グランドクロス」なんてのがあって、それぞれに不安感をあおっておりました。

前者は惑星が軌道上で一直線に、後者は地球を中心に十字形に並ぶという、天体現象らしいのですが、その時に互いの惑星の重力だの、十字架の神秘的な力が影響して、天変地異が起きるという、まぁそういうトンでもな話です。(信じる人多いらしいですよ。国立天文台のHPには、そんな天文用語はないと、わざわざ書いてあるくらいで・・・・)

直列はすでに82年に起きてしまったらしいし、クロスにいたっては、いろんなパターンでしょっちゅう起こっているということですが、もちろん、今に至るまで何もないですね。

思えば予言以外にも、37生はよくだまされてまいりました。
特に天体現象に関しては空振りが多かったように思います。
心に残っているのは「ジャコビニ流星雨」、これも5年生の時ですね。
なんと流れ星が雨のように降るのだという、信じられないような話が、それこそ降ってわいたのです。

37生はみんな胸をときめかせましたねぇ。
わたしなんか友達と連れ立って、夜、小学校の校庭の朝礼台の上で、空を見上げていましたもの。

しかし待てど暮らせど流れ星は落ちず、寒いし、眠いし、ひどい目に遭いましたよ。
その後みんなでなかったことにしようとしたのか、この事件は急速に忘れ去られ、わずかに、マンガ「アストロ球団」の「ジャコビニ流星雨打法」に痕跡を残すだけとなりました。
(これが、バットの破片が流れ星のように降りそそぐという、すごい技なんだけれど、それについてはまたべつの機会に)

あとはなんといってもハレー彗星でしょう。
「大人になったら、あれが見られるんだ」と、ずっと思ってきたのに、なんなんだでございましたねぇ。
どうも学者の皆さんには「今回はダメだぁ」とわかっていたのですが、世間の盛り上がりに、言い出せなかったというのが、真相らしいです。
これはもう世代的トラウマといってもいいのではないでしょうか?

次回にはなんでも、大空いっぱいに尾を引くものすごい姿が見られるらしいですよ。
その時37生は100歳手前、同胞よ、意地でも長生きしてやろうぜ。
・・・・・(終わり)・・・・・

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  1. 2006/04/18(火) 08:28:53|
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札幌オリンピックの金銀銅独占

オリンピック見てますか?
37生がオリンピックに目覚めたのは47/'72年、小学4年生の時ではないでしょうか?
当時はまだ夏季と冬季のオリンピックが同一年度に行われており、この年は文字通りオリンピックイヤー。
2月3日に札幌オリンピック、8月26日にミュンヘンオリンピックが開幕しています。

その前のオリンピック(冬はグルノーブル、夏はメキシコシティ)も、年齢的に少しは覚えていてもいいはずなのですが、小学1年くらいだとあまりスポーツには興味がなかったのでしょうか、まったく記憶にありません。
アニメだったら5歳くらいのものでもよーく覚えているのに、不思議なものです。

というわけで、今回はアルベールビル大会開催記念ということで、札幌冬季オリンピックを思い出してみましょうか。

さて、37生にとって札幌オリンピックといえば、ジャンプなのです。
というか当時の全国民的に、ジャンプです。
もう何たって日本選手は、これしかいいところがなかったわけで、すべてはここに始まり、ここに終わるみたいな感じでした。
そうそれが、笠谷、今野、青地、三選手による、伝説の「金銀銅独占」であります。

今だと、ラージヒル、ノーマルヒルというのですが、当時は90m級、70m級。
この70m級の方で、それまでの冬季オリンピック全部ひっくるめて、銀メダル一つしかとったことのない(猪谷千春・'56コルティナダンペッツォ大会・アルペンスキー男子回転)日本が、表彰台を独占してしまったのです。

わたしこの時の70m級決勝、ライブで観ておりました。ということは日曜日だったんですかね?あるいは建国記念日か?
日本の3選手は先に飛び終わり、あとは外国選手が飛ぶたびに、アナウンサーが、「ニッポン、金銀銅独占なるか」と興奮気味に繰り返していたのをよく覚えています。

この快挙は、もちろん選手が(特に笠谷)世界のトップクラスだったこともありますが、できたばかりの宮の森シャンテで、徹底的にジャンプ台の特徴をつかんだ、地の利の勝利でもあったようです。

あの頃のジャンプは今と違って、ジャンプ台を滑り降りていく時は、手を顔の前で拝むようなポーズをしていましたね。おそらくその方が空気抵抗がないという判断だったのでしょう。
それと飛形も、今のようにV字になると減点で、両足がきれいにそろっているのが正しいとされていました。
当時の小学生達は、みんなこれをまねて、滑り台でジャンプごっこをして遊んだものですね。

さて、70m級の快挙で、一挙に90m級への期待が高まったのはいうまでもありませんが、こちらはまったくメダルに届かず、惨敗してしまいます。
天候が荒れてコンディションが悪かったのが原因ですが、精神力の勝負みたいな状況では、日本選手は弱かったのだといわれています。
このあたり、抱えている課題は今でも変わらないのでしょうか?

でも、考えてみるとジャンプってすごいですよね。
多くの日本人にとって、ジャンプという競技自体、札幌で初めて見たようなもので、(少なくともわたしはそうでした)
正直、子供心には、なんちゅうむちゃくちゃなことをやるんだと、感心したのでした。
それまでスキーというのは滑るもので、飛ぶものではなかったわけで・・・
・・・・・・・それがあんなに飛行距離があるんですよ。
初めて見た時の感想は「う、うそだろ」・・・・・・でした。
他にもボブスレーとか、バイアスロンとか、へぇ、冬のスポーツっていうのはいろいろあるんだと、教えてもらったオリンピックでもありました。

というわけで、この時の感動はその後長く尾を引いて、日の丸飛行隊として、日本はジャンプ競技で名選手を輩出するようになります。
八木、原田、船木・・・・彼らの存在も、この時快挙があってこそなのですね。

最近はぱっとしないんだけど、もう一度盛り返してほしいねぇ。
・・・・・(終わり)・・・・・

テーマ:昭和文化 - ジャンル:サブカル

  1. 2006/02/15(水) 08:10:34|
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